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第10章 スタジオ録音もデジタルに <ミニディスク>

第1話 スタジオ録音もデジタルに


  • スタジオ録音もデジタル化が進む
 「デジタルオーディオ技術で全世界の録音スタジオを変えていこう」。コンパクトディスク(CD)の音源そのもののデジタル化である。土井は、芝浦工場にあった技術研究所から30人の若手エンジニアを連れて厚木工場に移り、業務用デジタルオーディオ機器の開発・商品化を開始した。

 家庭用のPCM(Pulse Code Modulation=パルス符号変調)プロセッサー「PCM-1」を発売した翌年の1978年3月、ソニーは業務用の「PCM-1600」を発売。業務用U-マチックVTRと組み合わせて、ソフトウエア用マスターレコーダーシステムとして、デジタル化の波を録音スタジオに持ち込んだ。世界的な指揮者カラヤン氏が盛田の自宅でその音の美しさに感動したのは、PCM-1600の試作機だった。

 PCM-1600を携えて、土井が世界の録音スタジオ、放送局にデジタルオーディオを広めようと日本を発ったのは、1980年のことだ。

 ところが、行く先々で土井たちはさんざんな目に遭う。アナログオーディオ技術を駆使する録音スタジオのエンジニアたちは、デジタルオーディオに拒否反応を示したのだ。価格はアナログタイプの機器より1けた高い。しかも、音質が硬く、音楽的でない、という評価であった。

 彼らの一部は、MAD(Musician Against Digital=デジタルに反対する音楽家たち)というグループを結成し、AES(Audio Engineering Society=米国音響技術者協会)学会などで「デジタル反対!」と派手にアピールした。ある時などは、手品師まで呼んで、デジタルの音を聴くと体の調子がおかしくなってしまうというパフォーマンスまでしたほどだった。

こうした反デジタルオーディオの潮流の中、土井たちを支えた強力な味方がいた。米ボーカリストのスティービー・ワンダー氏やジャズピアニストのハービー・ハンコック氏など、そうそうたるビッグ・アーチストがデジタルの音に惚れ込んだのだ。ソニーのデジタルオーディオ機器で録音した自分のデモテープを流しながら、AESの機器展示会場でソニーのブースに座っていてくれるなど、積極的にデジタルオーディオを支援してくれた。これは大きな宣伝効果があった。「彼らのような、ヒットチャート上位常連のトップミュージシャンが良いというなら、我々も……」というミュージシャンが次第に増えていった。クラシック界ではカラヤン氏という巨匠がCDの素晴らしさをアピールしてくれたが、大衆化という点で、彼らの果たした役割は大きかった。

 土井たちが一番最初に導入した、2チャンネルのデジタル録音用プロセッサーPCM-1600などを使って、クラシックの新譜はほとんどすべてがデジタル化された。そして、さらにデジタルマルチトラック・24チャンネルレコーダー「PCM-3324」の開発に成功し、量産が1984年に始まると、あっという間に世界中の録音スタジオに広がり、マルチトラック録音という面倒な録音が必要なポピュラー音楽(演奏楽器が多数使われているため、複数のマイクを使ってそれぞれ異なるトラックに録音し、後でミキシング編集によって音楽的バランスをとる)も、次々とデジタル録音されるようになったのである。

第2話 4年後の逆転

  CDソフトの国内生産枚数を見ると、CDシステムの急速な普及の様子が見てとれる。ポータブルCDプレーヤー「D-50」が登場した1984年末頃は、 LPレコードと比べればまだ10分の1程度の生産枚数だった。それがわずか2年後の1986年、年間4500万枚という生産枚数を分岐点に、LPレコードを逆転したのである。
 CDプレーヤー1号機がこの世に誕生してから、わずか4年でオーディオメディアの多数派に転じたことになる。6年後の1988年前後には、LP最盛期の生産量の1億枚を超し、10年後の1992年にはその3倍の3億枚を突破した。

 ソニーグループのCDソフト生産拠点の拡充も、CDの普及を早めた。日本のCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント=SME(J))のCD工場に加え、米インディアナ州テラホート、オーストリアのザルツブルク近郊にもCDソフト生産拠点を設立し、1987年までに、日米欧の3極における、年間1億2000万枚のCDソフト生産体制を確立した。1987年4月にオープンした仏アルザスのCDプレーヤー生産工場も含め、CDのハードウエア、ソフトウエアを全世界に供給する体制をいち早く構築していったのである。

 実は、当時、技術研究所所長だった中島たちがCDの開発を始めた時、社内で行ったビジネスの見通しのプレゼンテーションで、「1989年頃にLPの生産数量とクロスして、ゆくゆくはLPの最盛期の2倍くらいになるだろう」という予測を述べた。これでも社内を説得するために2〜3年早めに言ったのだ。「10年ひと昔」と言うように、CDがLPにとって代わるメディアになるには10年はかかると思っていたのだが、これはうれしい見込み違いであった。音楽業界は、CDによって新たな命を与えられ、息を吹き返したかのようだった。「デジタルをやってよかった」。中島は心からそう思った。

 CDビジネスは、プレーヤーやソフトウエアの販売にとどまらず、次々に広がっていった。ソニーは、LSI(大規模集積回路)や、半導体レーザーを組み込んだ光学ピックアップなど、CDプレーヤーに使われるキーデバイスの社外向け販売(外販)を開始し、CDプレーヤーを生産する国内外のメーカーの需要に応えていった。
 特にD-50の発売以降は勢いを増し、全世界のCDビジネスを立ち上げ、大きく支えていった。「コンポーネント(システムの一部の部品)の外販も含め世界のCDプレーヤー市場の50%のシェアを取ろう」という方針が当時社長の大賀の下で推し進められ、実際、最高時には70%まで記録した。

 いち早く1982年に外販を開始したLSIは、全世界のCDプレーヤーの約60%に搭載される重要な存在になった。また、1984年に外販を開始した光学ピックアップは、海外生産も活発に展開し、10年間で外販累計1億セットを達成、ソニー社内で使っているものと合わせて累計2億台となった。

第3話 コンパクトカセットに代わるミニディスク


  • 新しいパーソナルオーディオメディア「MD」を発表する大賀
 さらに、CDの登場からちょうど10年後、ソニーは音楽メディアに新風を吹き込んだ。
 1990年に入り、長年親しまれてきたミュージックテープを含むコンパクトカセットの売り上げが頭打ちになり、その生産量、生産額(国内)は1988年をピークに下降し続けていた。この様子を見て、「これに代わるものをやらねばならない」と考え始めていたのが、大賀である。

 80年代、大賀が先頭に立ってビジネスを立ち上げてきたCDは、デジタルによる高音質化とともに、ディスク特有の瞬時に頭出しができる高速ランダムアクセス機能によって、LPにとって代わる音楽メディアとして市民権を得ていた。しかし、これは記録済みのソフトウエアを楽しむ再生専用のものだ。「カセットに代わる、次世代の記録可能な音楽メディアもディスクでつくりたい…」そんな思いを大賀が胸に抱いていたある日、オーディオ技術部の鶴島克明(つるしま かつあき。現常務)たちがオーディオフェアに出品した「CDを使った録音機」が、大賀の目にとまった。1989年のことだった。

 実はCD開発後、ソニーでは、磁気テープのように記録できるディスクの開発をめざし、ディスク記録技術を育ていた。そして、情報記録用のメディアとして、1986年に追記型の「WO」(Write Once Disk=1回だけ情報を記録することができる光ディスク)を、1988年には書き換え可能な「MO」(Magnet Optical Disk=何回でも情報の書き換えが可能な光磁気ディスク)を商品化していた。「CDを使った録音機」は、MOに生かされた光磁気記録技術(ソニーと KDDが共同開発)を使って試作されていた。

 大賀は鶴島に言った。「CDによる録音ではなく、もっと小さなディスクを使って記録・再生ができる、コンパクトカセットに代わるものをつくるべきだ」。1990年、ここに新しい音楽メディアの開発が始まった。

 ハードウエアだけでなく、ソフトウエア、メディアも含めて、世界標準規格化を進めなくてはいけない。ところが、CDの時に共同で技術開発、規格化を進めたオランダのフィリップスは、コンパクトカセットの生みの親であるため、「コンパクトカセットに代わるものはやはりカセットだ」と、カセットのデジタル化を考えていたのである。何度も話し合いを重ねたが、今回は共同歩調をとれそうになかった。2つの違ったメディアが誕生することになりそうだ。

 鶴島の下、CD開発でデジタルオーディオの夜明けに関わったメンバーが集められた。これまでに社内で培われたMOの光磁気記録技術を活かして、さらに小型化したディスクへの音声記録を可能にしていく。今度のディスクの大きさは直径6.4cmと決まった。CDと同じ74分間の音声を、今度はその約半分の大きさ、面積にして約4分の1のディスクに記録しなければならない。そこで、最新デジタル信号処理技術である「ATRAC(Adaptive TRansform Acoustic Coding)」という新しい音声圧縮技術が開発された。また、ポータビリティーを考えて、再生時にショックが加わった時の音の途切れを抑える技術開発も同時進行で行い、半導体メモリーを使った「ショックプルーフメモリー」という新技術が開発された。

1991年5月、ついに新しい時代のパーソナルオーディオメディア「ミニディスク(MD)」システムが発表された。

 カセットのように録音できて、CDのように高音質で瞬時に頭出しができる。持ち歩きに便利なようにディスクはカートリッジの中に収められている。ショックプルーフメモリーのお陰で、持ち歩き再生時のプレーヤーの振動対策も完璧だ。CDは「ゆったりとして音を聴く時に」、MDは「ウォークマンのようにいつでも、どこでも、手軽に楽しんで…」と、使用目的を明確にした。

 大賀は、日本、そしてアメリカで相次いで行われた発表会で、この新しいパーソナルオーディオシステムを手に、「1992年末の発売を目標に、国内外のハード、ソフトメーカー各社にこのMDの採用を提案いたします」と、呼びかけた。そして大賀のリーダーシップの下、MDをデファクトスタンダード(事実上の業界標準)にすべく、日米欧で積極的に説明会やデモンストレーションなどを行い、有力なハード、ソフトメーカーと次々とライセンス契約を結んでMDファミリーを増やしていった。

第4話 ハードもソフトも素早い立ち上がり


  • MDもハードとソフトの両輪を回転。MDソフトの発表をする、SME(J)社長の松尾
 MDの商品化を託されたのは、小型化の得意なゼネラルオーディオ事業本部だ。CD開発時に本部長だった大曽根幸三(おおそね こうぞう)は専務となり、高篠静雄(たかしの しずお)が本部長となっていた。その高篠から「こういうのをやるから」と、6cm四方ほどの小さなディスクの録音・再生機という課題が、技術者たちに伝えられたのは、1991年末のことだ。皆、ウォークマン、そしてポータブルCDプレーヤーのD-50を担当した小型化のエキスパートばかりだ。しかも、発売目標は、フィリップスなどが開発した「デジタルコンパクトカセット(DCC)」と同じタイミングである 1992年11月、全世界同時発売と決められた。発売まであと1年しかない。

 当時、光学ピックアップは開発途上であり、マイコンに組み込むソフトウエアも再生専用のCDウォークマンと勝手が違う。連日夜中まで働き、休日出勤の続くスタッフとその家族を心配した高篠は「○○さんには、ソニーが次世代の技術として大変重要に考えているプロジェクトのために、頑張ってもらっています」と、担当者1人1人の家族に手紙を出して理解を求めた。

 一方、機器本体の発売日に合わせて、MD音楽ソフト、録音用のメディアも準備していかなければならない。すでにこの頃、CDソフト生産工場は、日米欧の 3極体制が整っていた。MDソフト生産も、この設備を増強すればフルに生かせる。国内では、SME(J)が中心となり、賛同ソフト会社の動向も考え併せ、年内500タイトルを目標に掲げ、MDプロジェクトを進めた。海外では、アメリカのSMEが、レコード会社をまわり口説いた。1992年8月、日本でまず MDソフトの量産が始まり、秋には海外工場でも生産を開始した。

 録音用のMDも、同じ7月に仙台テクノロジーセンターで生産を開始するなど、ハードウエアとソフトウエア、そして録音用メディアの連携、協力が進んでいた。

 1992年11月、9月の商品発表以来、MDに対するユーザー、マスコミの関心が高まる中、まず国内で一斉に新製品が発売された。録音・再生機の「MZ-1」、再生専用機の「MZ-2P」、録音用メディアの「MDW-60」などが、SME(J)制作の音楽ソフト88タイトルとともに店頭に並ぶ。「見て聴いて、試してください」と、MDの試聴が直接体験できる店頭キャンペーンが、東京、大阪、名古屋の主要電気店で実施された。続く12月、海外でも録音・再生機、再生専用機が、音楽ソフトとともに発売された。

 1982年に登場したCD、そして、1992年のMD。デジタルオーディオの可能性はさらに広がり、より手軽に楽しめるようになった。1995年、業界全体でMDのハードウエアの国内販売台数はついに100万台の大台に乗った。

 また、最初は音楽メディアに過ぎなかったCDは、その後次々に新しいファミリーを増やし、やがてAV、コンピューター、ゲームなど広い分野で、活躍の場を広げていった。音声・映像・文字用の「CD-ROM」(1985年規格化)、そして映像・音声両用の「ビデオCD」(1993年規格化)など。MDは、 CDと同様の使い方ができるように初めから考えられていたので、音楽メディアとしての発表後、いち早く、音声・画像・文字用の「MDデータ」(1993年規格化)、画像用の「MDピクチャー」(1994年規格化)とMDファミリーを広げていった。

 さらに、1995年末には新たに、次世代の情報・映像記録メディアが規格統一された。CDと同じ大きさの光ディスクに映画が1本収まり、CDに換算すると約7枚分の容量があり、より高性能で大容量の記憶容量を持つ「DVD」である。当初は、単板方式の「マルチメディアCD規格」を提唱するソニー・フィリップス陣営と、両面張り合わせ方式の「SD規格」を提唱する東芝など日米欧7社陣営に分かれ、映画ソフト業界、コンピューター業界を巻き込んで、1年以上にわたって話し合いが続けられた。そして1995年12月、「規格の統一がユーザーにとって最も重要」との考えから、それぞれの長所を合わせた形で、規格統一の最終合意に至り、1996年末の商品化に向けて走り出した。

 CDで花開いたデジタル技術は、ディスクというメディアの世界でその可能性を広げていく。その一方で、従来からのカセットテープの分野でもデジタルオーディオ技術は生かされている。1987年、CDに匹敵する高音質なデジタル記録を可能とする「DAT(Digital Audio Tape)」が誕生、そして、1992年にはその技術をベースに、切手サイズのカセットに納めたテープを使った、デジタルマイクロレコーダー「NT-1」も誕生した。

 ディスクの世界で、テープの世界で、デジタル技術の可能性はさらに広がり続ける。
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