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第1章 焼け跡からの出発

第1話 焼け跡からの出発


  • 白木屋前にて井深
 1945年9月、東京での新会社創設のため、井深 大(いぶか まさる・当時37歳)は樋口 晃(ひぐち あきら)、太刀川正三郎(たちかわ しょうざぶろう)などの仲間とともに疎開先の長野県須坂から上京した。

 日本橋の白木屋の3階、電話交換台があった狭い部屋が新しい仕事場だ。焼け残ったとはいえ、建物の周りのコンクリートはヒビ割れ、窓ガラスさえない吹きさらしの粗末な一室である。それでも、だんだんと事務所らしい様相を呈してきた。
 10月、井深たちは念願の「東京通信研究所」の看板を掲げた。
 会社ができ、自分たちの持てる技術を世の中に役立てていきたいという目的はあったものの、正直言ってどの仕事から手を付けてよいか分からない。

 最初の給料こそ井深が貯金をはたいて皆に渡したものの、会社を存続させるためには、何か仕事をしなくてはならない。それで思い付いたのが、ラジオの修理と改造である。研究所で短波放送の聴けるコンバーター(周波数変換器)を開発した。戦争で壊れたラジオ、敵の放送を聴くことができないようにと短波を切られたラジオが世間にはたくさんあった。これをスーパーやオールウエーブタイプのものに改良するのである。戦後の世界情況やニュースに飢えていた日本人にとって、ラジオの修理と簡単に取り付けられるコンバーターは喉から手が出るほど欲しい。そのため需要は結構あった。

 また、こうした井深たちの仕事が朝日新聞のコラム"青鉛筆"で紹介されると、ますますお客が増えていった。しかも、これには余得があった。お互い気にかけながらも終戦のゴタゴタで消息の分からなくなっていた盛田昭夫(もりたあきお・当時24歳)から連絡があったのだ。戦時中、軍需監督官として井深と親交のあった盛田は終戦と共に愛知県知多郡小鈴谷にある実家に戻っていたが、ある日配られてきた『朝日新聞』に目を通しているうちに、井深の記事に気づき、すぐさま井深に手紙を出した。折り返し来た上京を促す井深の手紙を見るや、盛田は既に決まっていた東京工業大学の講師の件もあって、すぐに東京に出て、研究所に顔を出すようになった。これで、再び、井深と盛田の交際が始まった。

  • 失敗作第1号の"電気炊飯器"
 ラジオの修理の次に研究所で手がけたのは、電気炊飯器。
 これは当時、軍需工場の閉鎖により一時的に電力が余っていたことと、日常生活に必要な商品を作りたいという井深の願望が一致したため考案されたのであったが、何分にも木のお櫃にアルミ電極を貼り合わせただけの粗末なもの。水加減や米の種類によって芯があったり、お粥のようになったりで、うまく炊けることのほうがまれというありさま。
 これは井深たちにして初めての失敗作第1号となった記念すべき商品である。

 むろんお金の取れる成功作もあった。真空管電圧計が官庁に納入されるようになったのである。こうして、1945年の暮れにはどうにか、井深たちの仕事も軌道に乗り始めていた。

第2話 東京通信工業株式会社


  • 1947年5月、左から盛田(当時常務26歳)と井深(当時専務39歳)
 1946年5月7日の昼、総勢二十数名の小さな会社「東京通信工業」(現ソニーの前身、以下東通工)の設立式が始まった。社長には戦後すぐの内閣で文部大臣を務め、文化人でもあった井深の義父の前田多門(まえだ たもん)になってもらい、専務に井深、取締役に盛田が就いた。

 ところで、井深は新会社を発足させるにあたり、設立の目的を明らかにした"設立趣意書"を、自ら筆を執り、取締役の太刀川に預けていた。それを設立準備のゴタゴタにまぎれて、すっかり忘れていた。後に、太刀川が井深に、「こんなことを書かれたんですよ」と見せたところ、「なかなか良いことを書いたんだなあ……」と自ら感心する始末。
 しかし、設立式当日の井深の挨拶は、その"設立趣意書"に書いたことと寸分も違っていなかった。いわく、「大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社ではできないことをやり、技術の力でもって祖国復興に役立てよう」
 資本金は19万円。機械設備とてない。お金や機械はなくても、自分たちには頭脳と技術がある。これを使えば何でもできる。それには、人の真似や他社のやっていることに追従したのでは道は開けない。何とかして、人のやらないことをやろう。この時から、既に東京通信工業の進むべき道は決まっていたのだった。

  • 設立趣意書
翌日から、全員が会社を盛り上げなければという気持ちで頑張った。その分、夜が遅くなる。あまり遅くまで仕事をしていると、白木屋の出口という出口にみな鍵をかけられてしまう。そこで仕方なく非常階段から下りると、それを見とがめた警察官につかまって絞られる者も出る始末。夜更けて非常階段から出て、泥棒と間違えられないほうがおかしいのである。苦労と言えば苦労、楽しいと言えば楽しい毎日である。苦労といえば、物を作ろうにも材料がないのが一番こたえた。  東通工設立の翌日、井深たちは逓信省に挨拶に行き、真空管電圧計の注文を50台もらった。ところが、これに使う真空管が手に入らない。軒並み闇屋を探し、軍の放出品が出ると聞いては秋葉原や金沢八景まで足を延ばし、遠くは茨城まで買いに行った。しかし、せっかく買ってきた真空管も、規格がマチマチで、100本中、50本使えれば良いという代物ばかりだ。これでは能率が悪い。仕方がないので、会社から測定器を持って行って店先で検査をやって、店の者から嫌がられたりもした。 工具もすべて自分たちの手製で、ハンダごてはむろんのこと、ドライバーは焼け跡からオートバイのスプリングを拾ってきて作る、コイルは買うことなど思いもよらずすべて自分たちで巻く、電話ケーブルの中身は試作品や試験配線に使うといった案配だ。まあ、これも苦労と言えるほどのことでもない。 最大の苦労は、やはりお金のことだ。  盛田が金策に苦慮していたのは、設立当初の資金繰りということもあったが、加えて1946年2月に出された「金融緊急措置令」により、新円の切り替えが行われたことも大きく影響していた。そのため、新円かせぎということが必要になってきた。

第3話 新円かせぎ


  • 売れに売れた電気ざぶとん
 "電気ざぶとん"は、井深が考案した新円かせぎの冬向け商品である。これは、2枚の美濃紙の間に細いニクロム線を格子状に入れて糊付けし、これをレザークロスで覆ったものだ。石綿も、ましてやサーモスタット(温度を一定の範囲に保たせるための自動調節機構)といった気の利いたものは入ってない恐ろしげな商品である。さすがに、これには東通工の名前を付けるのは気が引けて、"銀座ネッスル(熱する)商会"という名を井深が付けたが、物がない時代だけにこれが売れに売れた。

 社員の家族総出で、ミシンをかけたり、コードをかがったりの下請け作業である。これによって新円を随分かせぎ、下請け代金を新円でもらった家族も皆大助かりであった。しかし、その分大事な毛布を焦がしたとか、ふとんに焦げ跡ができたという苦情も多く、電圧の上がる夜中など火事を起こさないかと作ったほうがヒヤヒヤしたものである。

 もっとまともな商品もあった。"ピックアップ"(レコード盤の音みぞから音楽信号を取り出す装置)だ。戦時中はレコードのピックアップなど禁制品である。需要はあると見込んで作ったのが当たった。材料は、空襲による火事場の焼け跡に転がっている鉄を拾って来た。これは焼きなまし(機械加工を行いやすくするための熱処理)する必要がないし、そこいら辺を探せばあちこちから出てくるので、大いに助かった。

 測定なんてできる時代ではない。すべて開発担当者の勘による手作りである。それでもなかなか音が良いと評判になり、後には量産するまでになった。できたピックアップは"クリアボイス"と名付けられて、神田や秋葉原に売りに行くのであるが、当時は製品を入れる箱などとても手に入らない。売り物を新聞紙に包んで持って行くのがせいぜいであった。
 工場での製造のほうは、こうして順調に進んでいたが、問題が残っていた。営業の拠点となる事務所の移転先がまだ見つからず、引っ越せずにいたのだ。
 「そんなに困っているなら、京橋にある私のビルを使いなさい」。助け船は、岩間和夫(いわま かずお)の叔父が出してくれた。

 進駐軍のダンスホール用に白木屋の七階を改造するため、井深たちの事務所を取り壊すという日の朝のことだった。さあ、引っ越しだ。東通工の面々は、張り切って準備を始めたものの、引っ越しの最中に、間仕切りは取り壊されるわ、外では白木屋の店員に応募する人が列をなして並んで見ているわ、そのうち、雨は降ってくるわで、悲惨な引っ越し風景であった。

 ところで岩間は、東大の地震研究所から東通工へ入った変わり種である。岩間と盛田は、名古屋市白壁町で家が隣同士。しかも岩間は盛田の妹の婚約者でもあった。これは戦争中から決まっていたのだったが、終戦のゴタゴタで延び延びとなっていた。東通工が設立されてすぐ、井深の仲人で岩間は結婚式を挙げた。そして6月1日、盛田に口説かれた岩間は東通工に入社した。

第4話 御殿山へ


  • 御殿山に引っ越してきた夏、工場前で。向かって左から樋口、岩間、井深、盛田
 京橋区銀座5丁目の徳屋ビルに事務所を移して間もなく、東通工に新しい仕事の依頼が来た。旧軍用無線機を放送用の無線中継受信機に改造するという、NHKからの仕事だ。
 日本中の通信施設はその当時壊滅状態で、NHKの放送施設もかなりの打撃を受けていた。そのため、これらスタジオの修理回復と日本各地に放送のための無線中継の受信所をつくり、放送の全国ネットを何とかすることが、戦後の復興のための急務となっていた。この任に当たったのが、当時NHKの改良課にいた井深の友人、島茂雄(しま しげお 後にソニー常務)であった。
ところが、戦後すぐの日本には全くと言ってよいほど資材がない。そこで目を付けたのが、軍の貯蔵物資。山梨・韮崎山中にあった大きな防空壕の中には陸軍の通信機材が置いてあり、その中に"地二号"という短波・中波のプラグインコイルの付いた対空無線の受信機がたくさんあった。これを、島は「日本の再建と平和のために役立てる」ということで、もらい受けてきた。
 島は、この"地二号"の修理と改造を東通工に任せた。これが、NHKと東通工との最初のつながりとなった。

 このように、官需(かんじゅ)とNHKで利益の確保も何とかなろうかという折も折、また引っ越し問題が持ち上がってきた。工場(吉祥寺)の持ち主が、自分で仕事を始めるからという理由で立ち退きを迫ってきたのだ。当時は電力制限を超えて使うと電気を切られることになっていたが、東通工の連中は、そんなことお構いなしに昼夜をたがわず働いてしまう。そのために、工場の持ち主は、自分の所の電気を切られるのを恐れて、追い出しにかかったようだ。
 
 考えてみれば、工場と事務所が分かれていると何かと不便な上、経費もかかる。井深と盛田は、全員が一緒になって働ける場所はないかと、また貸家探しを始めた。
 1946年も、後わずかで暮れようかという時期での工場探しだ。たった1台あった中古のダットサンも度重なる故障に音をあげて売り払ってしまっていたし、その後は、インフレで新車を買うことなど思いもよらない。専務の井深、取締役の盛田2人揃って、暮れも押し迫った夜道を寒い思いをしながら歩き回るはめになってしまった。

 やっとのことで見つけたのが、品川・御殿山(ごてんやま)にある「日本気化器」(自動車用の燃料機器メーカー)が社員食堂として使っていたおんぼろバラック工場であった。ここが、現在のソニー本社のある所である。
 工場の建物は、確かに粗末であった。しかし、ここに初めて全社員揃って仕事ができるようになったという、一同の喜びは大変なものであった。
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