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第10章 ソニーアメリカの設立

第1話 ソニーアメリカの設立


  • 設立初期のソニー・アメリカのオフィス
 「日本の東京通信工業(ソニーの前身。以下、東通工)から、世界の東通工へ」と、ソニーが輸出に重点を置くことを決めたのは、1953年、当時専務だった盛田のオランダのフィリップス社見学に起因している。
 日本とオランダ、互いによく似た国情であれば、東通工もフィリップスのような大企業になれないはずはない」。そういう信念のもと、東通工では『世界的な目を持って考え、物を作り、輸出に全力を注いでいく』という方針を打ち立てた。
 その第1目標は、輸出と国内の販売を半々に持っていくことであった。この目標はトランジスタラジオの完成と、盛田たちの心血を注いだ努力により7年の年月をかけて、実現可能なところまでこぎ着けてきた。

 次は第2段階だ。「今までは、日本から海外へ物を売るだけだった。これからは、相手の懐に飛び込んでいく必要がある。海外に対する販売とは、海外における事業であるから、ソニーの事務所を海外に設置することで確実な力を持つことができるはずだ」と盛田は積極的に海外に進出することにした。そのために、既にニューヨーク、ホンコン、チューリッヒには事務所を、アイルランドのシャノンに工場を設置し、海外進出の態勢が整えられていた。

 そして、1960年2月、ニューヨークにソニー・アメリカ(Sony Corporation of America=SONAM)が「アメリカ人と一緒に、アメリカのメーカーと同じようなやり方」で発足し、ソニー自ら販売活動に乗り出すことになった。これはいまだかつて、日本の他の電気メーカーではなされなかった大冒険であった。一般の商社と違って、トランジスタラジオやエレクトロニクス製品だけで販売会社が成り立つのか、アメリカの代理店を通さずに商売としてやっていけるのか、という不安を抱く外部の声が聞かれた。

 この点は、盛田も十分承知していた。「今のソニーの全般的状勢から見ていささか時期尚早という気はする。しかし、今をおいて好機はないと考えている。好機到来とあらば、あえて苦労を辞さないという精神を常に持っていただきたい」。社内に向かって、盛田はこう明言した。

 やりがいのある、苦労しがいのある仕事だと思ったら、生みの苦しみがどんなに大きいものであれ、チャンスを逃さず実行に移していく。技術でも販売でも同じである。これこそソニーらしいやり方であった。もちろん、盛田が「今をおいて好機はない」と言ったのは、それなりの事情があってのことだった。

 SONAM発足以前、ソニーの米国における販売は、1957年9月に相次いで交わされたアグロッド社とスーパースコープ社との代理店契約によって維持され、アグロッド社が主にトランジスタラジオとマイクロホンを、スーパースコープ社がテープレコーダーの販売を担当していた。スーパースコープ社は、テープレコーダーやマイクロホンの販売に一生懸命取り組んでくれた。

 アグロッド社とは販売代理店契約を交わし、その配給業者として全米に販売ネットワークを持つ卸業者デルモニコ・インターナショナル社が選定された。この関係は当初うまくいって、ラジオの輸出量も飛躍的に伸びた。ところが、盛田がアメリカで行おうとしていた販売方法と、デルモニコ社の考えが、次第にかみ合わなくなってきた。そして、関係を切る決定的な要因となったのが、デルモニコ社の契約違反である。デルモニコ社が、世界で初めてのトランジスタテレビ「TV8-301」を取り扱うことを、小売商向けに発表してしまったのだ。しかも、値段を勝手に決めて予約注文まで取り始めたのだ。これは、全く盛田のあずかり知らぬところであった。
「こんな勝手なことをして……」。盛田はこの時、断固としてデルモニコ社との協力関係を打ち切ることを決意した。

第2話 ブロードウエイ514番地


  • 米国でのソニーの販売に力を貸してくれたロッシニー弁護士
 アメリカ市場における国際競争の激化に打ち勝つため、中でもこれからトランジスタテレビなどの新製品を米国内で販売していくためには、ここでデルモニコ社との関係を切り販売体制を整えるほうが、将来的にはソニーのためになると思う。また、たとえこれが失敗であったとしても、我々はかけがえのない経験を積むことになるはずだ。今後は、当社が小売店に直接販売する現地法人を設立する」。盛田は東京に連絡をとり、社長の井深たちにこう説明して了承を得た。こうなれば、早急にニューヨークにソニー全額出資の子会社を設立するための認可を得なくてはならない。東京でも、盛田の活動を支援するため、大蔵省通いが始まった。

 こうして、資本金の50万ドル(当時で約1億8千万円)の払い込みを無事終え、1960年2月15日、ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカが設立された。

 盛田の次の仕事は、デルモニコ社との話し合いのテーブルに着くことだ。盛田は、弁護士に旧知のロッシニー氏を頼み、交渉にあたった。デルモニコ社の言い分は、「ソニーとの関係の打ち切りは認めよう。その代わりに補償金を支払え」というものだ。これは、ソニーにとって、全く不当な要求であり、しかもその補償金の額たるや法外なものであった。盛田は相手の違反行為を指摘し、この要求をはねのけた。しかし、この問題が円満に解決しないことには、せっかく設立したソニー・アメリカの業務もじゃまされかねない。ロッシニー氏も、粘り強く交渉にあたってくれた。盛田の毅然とした態度と、弁護士の熱意で、補償金の額が最初の額の4分の1に下げられ、ようやく解決にこぎ着けた。

 ソニーのオフィスのあるブロードウエイ514番地は、エンパイアステートビルディングとダウンタウンのちょうど中間に位置し、かつてはこの辺り一帯が、ニューヨークの中心であったと言われている場所だ。しかし、今はマンハッタンを南北に貫くブロードウエイに面しているとはいえ、劇場や映画館のひしめく繁華街のタイムズスクエアとは少し趣が異なり、織物、機械、家具などの問屋、加工工場が軒を並べ、裏通りには荷物を積み降ろしするトラックの群れがひしめきあっているという所だ。

 思えば、東京とのやり取りを円滑にするため、山田志道氏の自宅を借りてニューヨーク連絡事務所を開設したのは、つい2年半前のことである。それが今は、現地法人ソニー・アメリカという立派な城を持つことになった。それは、わずか10坪程度の小さな城ではあったが、ここを根城にして、国際市場という荒海に、ソニーは乗り出そうとしていた。盛田は感無量の思いであった。

第3話 アメリカのやり方


  • 1963年、盛田は本格的に米国での販売拡充の陣頭指揮をとるため家族とともに渡米、駐在した
 盛田がまずやるべき仕事は、この小さい城のスタッフを充実させることであった。「我々は、今や撤退することは許されない。少なくともデルモニコ社がやっていた時以上の利益をもたらすことが、我々に課せられた第一の命題である」。この盛田の言葉を実現させるためには、まず必要な人材を確保しなくてはならない。

 新聞広告を出したり、人材を斡旋する会社に行って、経理、倉庫番、セールスマンと、会社の形態を整えるため、いろいろな人を慌てて雇った。そうして何とか陣容もでき上がり、2〜3週間が過ぎたころ、盛田は急いで人を採った過ちに気がついた。タイピストとして雇った人が、ほとんどタイプを打てない。経理の要員で入った人が、帳簿を付けられないというありさまである。

「雇い方を間違えてしまった。これは困ったものだ。それでなくても、下手な英語でアメリカ人を使うのは骨が折れるのに……」と、盛田はほとほと困ってしまった。

「それでは、首を切りましょう」。盛田の仕事上のパートナーであるアメリカ人は簡単にそう言った。事実、金曜日になると、「あなたはタイプが打てないから、来週からもう来なくていいよ」と、その週の1週間分の給料を払って、首を切ってしまった。盛田は、あ然としてしまった。「アメリカでは、こんなことができるのか……」。完全なカルチャーショックだ。日本人の盛田の感覚からすれば、一度人を雇うと、その人に辞めてくれとはとても言いにくい。
「ここは大変な所だなぁ。しかし、経営者にとってはありがたい国だ」。盛田はアメリカ社会の合理性が、すっかり気に入ってしまった。

 さて、盛田たちの肝心かなめの仕事は、トランジスタラジオを売り込むことだ。売るためには、お客を説得できないことには話にならない。テープレコーダーの時と同じで、なぜトランジスタラジオのように小さいラジオが必要なのかを、一人ひとりに説明して歩くことから始めた。
「アメリカにはたくさんの民放局があり、番組が常時流れている。今までのラジオだと、机の上に置いて聴かなくてはいけないが、トランジスタラジオなら誰もが、自分の好きな時間に、好きな場所で思い思いの番組を聴くことができる」ということを説明しながら、新しいマーケットをつくっていくのが盛田のやり方だった。初歩的なラジオの知識からセールストークまで、懸命になって新任のセールスマネジャーに教えていった。

 こうして、やっとそのセールスマネジャーが仕事をマスターし、盛田の片腕としてやっていけると思われた頃、突然「退職したい」と言ってきた。「家族のために、今よりお金が必要なのだ。それで、倍額払うという他社に行きたい」というのが、彼の言い分であった。一生懸命教えてきたため、今さら手放したくはない。しかし、盛田には彼のために、倍の給料を出してやる余裕はなかった。仕方なく、別の人を雇うことにした。

 ところが、辞職したセールスマネジャーは、ソニーとは強力なライバルである会社に引き抜かれて行ったのだった。つまりは、盛田が教えた販売のノウハウは全部、競争相手に持っていかれたということだ。これこそ、日本では考えられないことであった。
「日本人とアメリカ人のものの考え方は、根本的に違うのだな」。盛田は、つくづくアメリカの合理性と怖さを実感させられることになったのである。

第4話 「カワラ」にできた工場


  • 1960年に完成した厚木工場
1960年、トランジスタの生産は月産100万個。これも次第に数が増える方向にあり、品川・御殿山の本社工場だけでは手狭になってきていた。そのため地方に工場をつくる話が持ち上がり、土地探しが始められていた。

 立地条件としては、とにかく半導体の工場となるべき条件が満たされていなくてはならない。つまり、広い土地、水が豊富であること、ホコリが少ないこと、それに交通の便も良いほうがいい。交通の便からいけば、都内が一番であるが、東京都には「首都整備法」があり、工場をつくるのに各種制限がある。そこで神奈川県平塚市の北部から厚木市の辺りまで、広範囲にわたって候補地探しをすることになった。厚木周辺を候補地としたのは、東京から46km、横浜から 32kmという距離にあって、衛星都市として十分発展する条件を備えてたためだ。また、当時はまだ東名高速道路の計画はハッキリしてはいなかったものの、いずれ高速道路ができれば間違いなく厚木の辺りを通ることになろうし、そうすればインターチェンジもできるだろうというくらいの見当からであった。その上、土地もたくさんある。この頃の厚木は、自動車部品の工場があったくらいで、養豚とイチゴの産地でしかなかった。

 こんな所に、近代的な半導体工場ができようとは、土地の人のみならず、土地探しに奔走しているソニーの担当者ですら、半信半疑だったのだ。

 厚木は早くから候補地に挙がってはいたが、途中で立ち消えになってしまった。問題になったのは、その予定地が畑地であったからだ。そこは、麦、桑、南京豆、大根の畑で、土地の人が通称「カワラ」と呼んでいる、その昔は相模川の河原だった場所だ。農地であると、たとえそこが工業誘致条例に指定されている場所であっても、農林行政上の立場から厳しい制限を課せられてしまう。

 しかし、厚木市当局からの強い誘致と、農地転換の見通しが立ったこともあって、最終的には厚木が残った。場所が決まると、買収にあたらなくてはならない。工場用地として3万5千坪、男子・女子寮のために1万5千坪、計5万坪の広大な敷地だ。厚木進出は、ソニーにとって思い切った投資であったが、結果としては良い買い物であった。当時、都内の3千坪と厚木の5万坪が、ほとんど同じ値段だったのである。

 さて、次は「どんな工場を建てようか」という段になった。本社工場の経験を生かして、トランジスタ工場として最適の工夫と、新しい設備を整えたい。トランジスタ製造工場としては、・塵とホコリが大敵、・窒素、水素、純水、冷却水を大量に使用する、・品種の変更、工程の改善から、製造の設備が頻繁に変わる、これらの条件を十分満足させる必要がある。頭を悩ます設計担当者の所に、常務の岩間が「こんなのがあるよ」と、米メーカーの最近できたばかりの半導体量産工場の写真を持って来てくれた。

 この工場の特徴のうち、【1】1辺が30mの角型のユニット(30m角に柱が1本)をいくつも連結してできているため、増築がしやすい。つまり、拡張する方向に自由度を持たせてある。【2】2階建ての1階と2階の間に、ダクト・スペースといわれる中2階が設けられており、その中に空調、ガス、水、電気などの配管が収められている。という2点を、ソニーでは参考にさせてもらった。

 設計担当者が一番心配したのが、ホコリであった。トランジスタ製造はホコリを極度に嫌う。厚木は相模平野の中心で、2月、3月には関東平野を吹きまくる木枯らしで、1m先も見えなくなってしまう。担当者は、2月に実際に敷地内をグルグル歩き回ってみた。想像以上にひどいホコリだ。そのため、建物の設計には細心の注意を払い、万全を期して、結局建物の南側だけに窓を開け、その代わり、本社工場のエアコン集塵機と違って、全部電気集塵機とした。これはかなりの出費となった。

 こうして1960年11月1日、ソニー厚木工場が完成した。「ソニーは、トランジスタで種々の製品を作っていますが、日本は輸出によりその隆盛を図らねばならず、そのためには世界を相手に、安くそして優秀な製品をどんどん作らなくてはなりません。厚木工場はその布石です。地元各位のご協力により、この考えを実現させてください」。厚木工場落成披露式で、挨拶に立った井深の言葉である。これに対し、厚木市長は「これまで厚木は米軍のジェット機で有名であったが、これからはソニーで有名にしたい」と応えてくれたのであった。

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