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第13章 IREショーで見つけたもの <トランジスタテレビ>

第1話 「IREショーで見つけたもの」


  • 世界初のオールトランジスタ式工業用VTR「SV-201」
 ADR(米国預託証券)の発行も終わり(第1部第12章第3話参照)、ソニーは平静を取り戻した。ソニーが「クロマトロン管およびこれを用いたカラーテレビジョン受像機」の製造に関する技術援助を米国パラマウント社と締結したのは、あわただしかった1961年も暮れようかという12月16日であった。
 「これまではラジオの時代だったが、これからはテレビに重点を置いていかなくてはならん」。社長の井深の一言で、ソニーの技術陣はポータブルテレビに取り組み、1960年5月に8型の白黒テレビ「TV8-301」を世に出した。「我々の普段の生活は、いつも豊かな色彩に取り囲まれている。それなら当然、我々のテレビにも色が付くべきだ。色なしのテレビというのは、不完全極まりないものだ」。白黒の次はカラー、というのが、テレビを手がける者なら誰もがめざすところであった。これは、井深たちにとっても同じことだ。

 カラーテレビの技術は、テレビが登場したごく初期から、多くの技術者によっていくつもの方式が研究されていた。そして、この頃になると、家庭用カラーテレビには、米RCA社が開発したシャドウマスク方式の3電子銃カラー受像管というブラウン管が用いられるようになっていった。しかし、このブラウン管には、“値段が高い”“調整が難しい”“故障が多い”という欠点があった。その上、画面が普通の白黒ブラウン管に比べてずっと暗く、普通の明るさの室内で見ると美しい色が出ない、色ずれが起こりやすいということもあって、カラーテレビの普及を遅らせる原因となっていた。たとえば、アメリカでは白黒テレビが 5000万台も普及しているのに、カラーはわずか100万台、日本では白黒テレビ900万台に対し、カラー300台以下という人気のなさである。
 井深たちは「カラーをやるからには、こんな欠点の多いシャドウマスクではやりたくない」と思っていた。ましてや、これまで世の中にないものを作り上げてきたという自信がソニーには満ちていた。技術者それぞれの胸にも、「ソニーはイノベーターだ。人と同じことをやっても仕方がない」という思いがあった。 “シャドウマスクに代わるもの”を探すのが急務である。

 ソニーだけでなく、シャドウマスクに飽き足らなく思っている人たちが他にも大勢いた。そしてその一つに、クロマトロンがあった。

 クロマトロンは、アメリカの有名な原子物理学者でノーベル賞を受賞したE・O・ローレンス博士によって発明されたものだ。1961年3月、ニューヨークで「IREショー(全米ラジオ電子ショー)」が開かれ、ニューヨークヒルトンと、ニューヨークコロシアムで展示会が催されていた。その頃の「IRE ショー」は、科学万博のようなもので、新しい技術の展示がたくさんあった。ソニーは、このショーに「SV-201」という世界最小のVTR(ビデオテープレコーダー)などを参考出品していた。
 ショーに参加したVTR開発責任者の木原信敏(きはら のぶとし)たちは、今まで見たこともない非常に明るいカラーディスプレイが、ニューヨークコロシアムに展示してあるのを目にした。これはIFF(Identification of Friend or Foe)という、敵・味方を区別するための軍事用のカラーディスプレイとして考案され、展示されていたのだ。木原は、一目見た途端、「これは、すごい。我々が探していたのはこれではなかろうか」と、ひらめきを感じた。

第2話 “SV-17作戦”


  • 綿密な打ち合わせを行う社長の井深(右)と副社長の盛田(左)
 これまで、クロマトロンは、わずかに軍事用などの特殊な用途に使われているに過ぎなかった。ソニーは、このクロマトロンの“可能性”を育ててみることにした。
 こうして、カラーテレビについては、クロマトロン方式を採用すべく、商品化を目指して研究に取りかかったのであるが、それとは別に、社内で着々と進行しているプロジェクトがあった。

 「8インチ(当時は、画面の大きさを対角線の寸法で呼んでいた)では大きすぎる。ポケッタブルラジオと同じ感覚で、もっと手軽に、どこにでも持ち運べて、どこででも見ることができるといったテレビを、何としても開発する必要がある」。井深たちは、8インチのポータブルテレビ「TV8-301」(第9章参照)を発売した直後から、それをもっと小型に、もっと高性能にしたものを出そうと着想を重ねていた。それが、5インチのマイクロテレビ「TV5-303」である。この開発は、他社に気づかれないように進められ、試作名称も“SV-17作戦”と付けられた。ソニーは17インチのカラーテレビを開発しているのではないか、という目くらまし作戦である。それだけに、技術研究、試作、生産とすべてが秘密で、情報が漏れぬよう関係者たちは神経を使った。

 開発の要となるのは、やはりトランジスタだ。半導体部の岩間和夫たちがトランジスタの研究を始めようとしている頃、アメリカのベル研究所でエピタキシャル(気相成長)のシリコントランジスタの開発が発表された。これは、岩間たちが探していたトランジスタに最適のように思えた。エピタキシャル法とは、半導体単結晶を1000℃前後に加熱したところに添加物を含んだガスを流し、単結晶上に新たな単結晶を生成させるものである。そこで、5インチテレビのためにエピタキシャルメサ形(形状が、平らな頂の山のようになっている)トランジスタの開発を進めた。トランジスタ方式のテレビでは、トランジスタの能率が悪いと熱を余計に出すのでロスも多く(電流を増やすため、必然的に発熱量が増える)、電圧も高くなる、という8インチの時の貴重な経験がある。今回は、5インチとセットが小さくなるのに比例してトランジスタも小型にして、しかも能率の良いトランジスタを作らなくてはならない。

 こうして、テレビ回路でいちばん電力を消費する偏向回路、あるいは同期回路に、初めてシリコンのエピタキシャルメサ形トランジスタが試作された。思ったとおり、これこそ5インチのテレビ設計の要求にピッタリのものであった。そこで、エピタキシャル法による単結晶製造を始めたが、これが今までの単結晶製造の概念を打ち破るもので、ガスの純度、半導体表面の取り扱い方法、ガスの流れのコントロール等々、今までよりも1桁も2桁も難しい製造技術が要求された。試作ラインの準備を整えたのが、1961年の春。秋にはやっと量産化のめどがついた。そこで、製造ラインに乗せたわけだが、セットの生産も始まろうかという翌年の2月になっても、なかなかトランジスタの完成品数量が上がらず苦労の連続であった。
 また、この5インチではカーテレビとして自動車に載せて、走りながらでもテレビ受像ができるようにという、大きな目標が定められていた。そのため、自動車自身が発生する電気的雑音や走行に伴う受信電波の変化にも、十分耐えられるようにしなくてはならない。
 このように、家庭用の据置型テレビや「TV8-301」では現れてこない、未体験の問題も取り組まなくてはならなかった。こうした問題の解決のため、担当者は連日帰宅が夜半の11時、12時となる。日曜、祝日も関係ない。連日遅くまで頑張っている部下を横目に、上司も帰るに帰れない。日曜日も家にいては悪いような気になる。それほど、皆の取り組み方は真剣であった。

第3話 トランジスタがテレビを変えた


  • 世界最小、最軽量のマイクロテレビ「TV5-303」
「TV8-301」での経験は、すべて今回の5インチの新設計に活かされた。「TV8-301」でいちばん問題となったのが、温度特性である。
 第一にトランジスタの温度特性。トランジスタの特性が変わってしまうと、あちこちの映像回路の特性もそれによって変わってしまう。セットサイズを小型にすれば、必然的に大型に比べて熱の放散が悪くなる。新型トランジスタの開発に関連して、セット外部への放熱設計が何度となく練り直された。一方、ブラウン管は、半導体部で密かに試作された。何しろ、ブラウン管の大きさが分かれば、ソニーが一体何を作っているのか、すぐに知られてしまう。

 セット自体の意匠デザインも練りに練られた。その中には、スケッチで終わったものや、デザイナーの頭の中で終わったものも数知れない。
 そうこうして、量産前の中間試作を終えたのが、1961年の11月である。プロトタイプが数台作られ、「正月休みの間に、どうぞ皆さんの自宅に持ち帰って試してください」と渡された。前回、「TV8-301」が発売されたのは5月だった。夏に向かって温度が上がっていくと、トランジスタの特性も変動し、映像の同期がはずれて画が流れてしまう、という手痛い失敗があった。今回は、失敗を繰り返してはいけないと、トランジスタの高温テストも十分したので、かなり自信がある。工場のラインにビニールのフィルム張りの部屋をつくり、金だらいで湯を沸かして湿度を上げ、さらに電熱器で室内の温度も上げて、高温になっても問題が起きないように、何回もテストを繰り返した。

 正月休みが終わり、テレビが戻ってきた。「どうでした?」との問いに対して、返ってきたのは「駄目だよ」という予想外の答えであった。よくよく聞いてみると、「晩にはちゃんと見れたのが、朝起きてスイッチを入れると、もう同期がずれていて駄目なんだ」と言う。技術陣は、今回は温度が上がった時のことばかり考えていて、温度が下がった時のことを考えていなかったのだ。

 さらには自動車に乗せて、振動等のテストも行われた。東京から姫路までの覆面テストだ。人に気づかれてはいけないと、「TV8-301」を座席の背当ての上部におとりとして取り付け、外から見ると「TV8-301」のテストをしているように細工した。肝心の「TV5-303」は、後部座席の床の部分に隠し、外から見えないようにした。ヒヤリとすることが何度かあった。大型トラックの運転手がのぞき込む。車のスピードを上げて、どのように画像がくずれるかをテストしていた時には、白バイに捕まり、「TV5-303」を見られてしまった。それでもテストの結果は、まずまずであった。

 「このテレビは、普通の据置型テレビを見るような概念では理解できない、新しい用途のテレビだ。いわば、個人の独占欲を満足させるテレビである。その点をぼかすと、単なる小型の珍奇な、技術者の自己満足のテレビになってしまう」というのが、井深や盛田の心配であった。そこで、井深を中心に関係者が集まり、愛称を決める会合を持った。
 出てきたのは「ミニテレビ」「ピコテレビ」「マイテレビ」など30以上。その中では「ハンドテレビ」が最有力で、対案の「マイクロテレビ」と何回も採決が繰り返され、ほとんど決まりかけていたが、最後には井深が名付け親となって、「マイクロテレビ」に決まった。また、キャッチフレーズも「トランジスタでテレビが変わる」という盛田の原案を、さらにドギツクして「トランジスタがテレビを変えた」と決めるまで、何度も討議が繰り返された。

第4話 これは、内緒です


  • 半導体のラインで熱心に顕微鏡をのぞかれる両陛下 (昭和天皇と皇太后陛下)
 ソニー技術陣は最後の追い込みに懸命であった。1962年になって、マイクロテレビ「TV5-303」はいよいよ完成目前のところまで近づいた。

 こうした会社の事情とは別に、年頭からソニーは国内外の来賓を迎えるのに、てんやわんやであった。この来賓ラッシュは、2月9日のロバート・ケネディ米国司法長官の来訪から始まった。続いて、同月20日には天皇、皇后両陛下(昭和天皇と現皇太后陛下)の工場見学が決定した。この日、両陛下は、時の東龍太郎東京都知事を案内役として、東京タワーや都内の各所をご視察の予定である。その計画の中に、ソニーが選ばれたのだ。

 この日のために、社内で予行演習をすることになった。沿道の警備の問題があるため、品川・御殿山の本社にお見えになってからお帰りになるまでの時間が、きちんと決められている。そこで、この製造ラインで何分、ここで何分と細かく時間を区切ってご説明の練習をした。ところが、当日近くなって皇后陛下が風邪を引かれ、ご来社の予定が延びた。そこで、もう一度関係者が集まって練習をすることにした。さあ、これで大丈夫とばかりにお待ちしていると、また延期の連絡である。ご来社の際の下準備をしている総務部でも、さすがに三度目の練習をどうしようかということになって、井深と盛田に考えを聞きに行った。「前2回の練習でうまくいったので、今回はやめにしよう」。2人とも同じ答えだった。

 結局1ヵ月遅れで、ご来社が実現した。当日、東都知事からご案内役を引き継ぎ、社内では井深が天皇陛下の、盛田が皇后陛下のご案内をすることになっている。さて、実際に製造ラインを回って説明を始めると、井深が説明役の天皇陛下のほうは、割とスムーズに進んでいるのに、皇后陛下のほうは、盛田があまりに一生懸命説明するので、だんだんと遅れてくる。次第に天皇陛下も立ち止まられ、皇后陛下をお待ちになることが多くなってきたため、警備から注文が出た。「時間が延長になると、沿道の信号をすべて設定し直さなくてはならないので、なるべく時間通りにやってほしい」というのだ。
 しかし、各ラインの見学を終え、最後にラジオ、テープレコーダー、テレビ、クロマトロン管使用の新しいカラーテレビなどを展示した8階講堂にお着きになった時には、すでに予定を過ぎていて、警備の人たちも諦めざるを得なかったのである。結局、15分もオーバーして、お帰りいただくことになった。井深や盛田の二度にわたる予行演習も役に立たなかったのだ。

 さて、このたびの工場見学で井深と盛田は、まだ秘密のベールに覆われているマイクロテレビ「TV5-303」を、貴賓室で初めて両陛下にお見せした。その際、「これは、まだ世の中に出ていませんから……」と申し上げたのが、後になって週刊誌の記事になった。「天皇に口どめ」という見出しで書かれたその記事は、「ソニーが作ったハガキ大のテレビは極秘で作られ、天皇、皇后両陛下がソニーを訪問された時も、周囲の目をカラーテレビに向けさせ、小さいテレビは貴賓室でお見せして、これはまだ秘密なのでと口どめし、秘密は保たれた」というものだ。

 「天皇に口どめ」という前代未聞の行為で秘密は無事保たれ、4月17日、世界最小・最軽量のマイクロテレビ「TV5-303」は新聞発表された。翌18日の主要新聞各紙は、これを写真入り3段のスペースをとって報道。「TV5-303」は華々しいデビューを飾った。
 4月末に来社し工場見学をした米国の歌手フランク・シナトラ氏は、このテレビをたいへん気に入った様子で、「ぜひ譲ってほしい」と井深たちに申し入れたが、アメリカは日本とテレビチャンネル(放送チャンネルの周波数)が違う。そこで盛田が「アメリカチャンネルのものができた折には、必ずお届けします」と約束し、納得してもらった。盛田は、半年後にこの約束を果たした。10月4日、アメリカでも「TV5-303」が発売されることになり、盛田はその陣頭指揮という激務に追われながらも、発売の翌日にはシナトラ氏のいるパラマウント映画の撮影所を訪れ、約束どおり「TV5-303」を手渡したのだった。

第5話 5番街のショールーム


  • ニューヨーク市5番街にショールームがオープンした
 アメリカでのマイクロテレビ「TV5-303」発売に先駆けて、1962年10月1日、ソニーはニューヨークにショールームを開設した。ショールームは、ニューヨークの中心マンハッタン島の、目抜き通りフィフス・アベニュー(5番街)にあって、その5番街でもとびっきり良い場所に位置している。

 9月に入り、ようやくこれまでのビルが壊され、ショールームのための突貫工事が始まった。もうオープンまで1ヵ月しかない。
 これが、なかなかの難工事である。何しろニューヨークでは、ビルとビルの隙間が1センチもないので、敷地の外に工事場をつくることができない。セメントをこねる一方、その場でセメントを流していく。そうすると、最後にはセメントをこねる場所がなくなってしまう。建築場と工事場が、全く同じになってしまうわけだ。しかも、日本と違ってすべてを建築会社が請け負ってくれるわけではない。電気屋、左官屋、壁張り屋、ジュウタン屋がそれぞれ別会社で、バラバラに自分のペースで仕事をするため、全体の進行状況などつかみようがない。この火事場のような混乱を、さらに混乱させたのが、日米間の意思疎通の難しさである。英語のできる者でも、発音がうまくできるとは限らない。

 たとえば、こんなことがあった。東京から応援に駆け付けた本社デザイン室の人間が、壁にビニールの壁紙を貼らせようと、業者に向かってしきりに「ビニール、ビニール」と言うのに、全く通じない。発音が悪いのかと思って、今度は“ビ”にアクセントをつけて言ってみた。やはり駄目だ。次に“ニ”を強くして言った。それでも相手は分からないようだ。思い余って実際に本人の目の前にビニールを持ってきて「ディス」と言ったところ、やっと分かったようで、「オォ、ヴァイニィル」とおおげさに手を拡げて見せた。“V”と発音するところを“B”と発音したので、アメリカ人には通じなかったのだ。毎日がこんな状態で、オープン前の追い込みになると戦争のような騷ぎになってしまった。

 さて、オープンの日になった。オープニング・セレモニーにはニューヨーク総領事をはじめ400人を超す招待客が見え、170平方メートルとそう広くないショールームは終日ごった返していた。

人気の的は、何といっても近日売り出し予定の「TV5-303」である。この人気は、オープニング当日だけではなかった。次の日から、1日7000人以上の人たちが「TV5-303」を一目見ようと押しかけてきた。ショールームには「いつから発売されるのか」といった問い合わせが殺到し、10月4日の発売と同時に、それこそアッという間もなく売り切れてしまった。

 「TV5-303」は、瞬く間にアメリカ中にブームを巻き起こした。これは当初、盛田たちが予想した以上の大成功であった。発売以降、こうしたアメリカからの要求に応えるために、東京サイドでは、「TV5-303」ができるそばから船積みしていたのだが、それも“焼け石に水”であった。
 しかし、こうした好況に浮かれてばかりはいられない。他メーカーの追従が始まろうとしていた。中には、すでにアメリカ市場にサンプル出荷まで始めているメーカーもあった。これらのメーカーを抑え、ソニーのマイクロテレビを世界に飛躍させるには、今をおいてない。11月7日、ソニーは大型輸送機をチャーターして、「TV5-303」をアメリカへ空輸することにした。

 このマイクロテレビのお陰で、ソニー・アメリカは一息ついた。それまでは、売り上げにいちばん貢献するテープレコーダーは販売代理店のスーパースコープ社が扱っており、ソニー・アメリカで売る主力商品といえば、トランジスタラジオしかなく、売り上げ額もソニーの国内販売の名古屋支店分くらいしかなかったのだ。

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