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第1章 ビデオもカセットに <ビデオカセット>

第1話 ビデオもカセットに

 1964年に木原信敏(当時主任研究員)たちが開発した世界初のオープンリールタイプの家庭用白黒VTR「CV-2000」は、あくまで家庭で使える大きさと価格に固執する社長の井深の夢の第一歩であった。

 テープレコーダーくらいの大きさの機械に回転ヘッドを付けて、素晴らしい画が出る。しかも価格は放送局用の100分の1以下、業務用の10分の1以下だ。構造が複雑な回転ヘッドは、固定ヘッドよりもコストが高い。回転ヘッドは、放送局用、業務用に向いているが、家庭用には無理だという業界の常識を打ち破り、世間をあっと言わせた。「技術に常識はない。我々の目標は、皆が常識と思い込んでいることを打ち破ることにある」という信念を持つ木原の快挙だった。もっとも家庭用といっても、まず医学、工業用から始まり、学校で使われるようになり、ぼつぼつと家庭に入っていくといった状況だった。実際、「CV- 2000」は業務用途によく売れた。しかし、やがて販売側からは「白黒でなく、カラーにしてほしい」、「VTRテープも、オーディオのようにカセットにできないか」という要望が強くなってきた。当時、テープレコーダーはカセット式が中心となりつつあったのだ。

  • 木原たちの試作品のひとつ、
    「弁当箱カセット」
 オープンリールタイプのVTRは、テープ巻き取り側と、供給側のリールがむき出し状態でVTRデッキの上に乗っている。記録・再生を始めるには、まず供給側にセットしたテープを指でつまんで引き出し、ヘッドの周囲を通して、巻き取り用リールに取り付けることから始めなくてはならない。これが結構複雑で面倒な上に、テープを傷つけないように気を使う。一方、カセットなら、リールとテープはプラスチックケースの中に収納されているので触らないで済むし、“ガチャン”とカセットをデッキに入れるだけでセッティングが完了する。これならば、誰にでも簡単に操作できる。

「VTRの機械の構造は非常に複雑で、カセット化するのが難しい。しかも、同時にカラー化なんて....。技術者の苦労というものを知らないなあ」と木原はぼやいた。しかし、追い打ちをかけるように、井深も「カセットのお陰でテープレコーダーは使いやすくなった。なぜVTRもカセット化しないのか」と木原に言ってくる。「やはり取り組まなくてはいけない課題だ」。木原自身もそれを強く感じていた。

 VTR の場合も、デッキ上に並んだテープ供給側と巻き取り側のリールをカセットケースの中にしまい込めばよい。しかし、回転ヘッドを使ったVTRがテープレコーダー(固定式ヘッドを使用)と違うのは、カセットケースからテープをわざわざ引き出して、記録・再生ヘッドの付いたドラム部分に自動的にかける機能が必要なことだ。つまり、テープの装填作業の自動化である「オートローディング化」を「カセット化」と抱き合わせで進めていく必要があった。

 木原率いる第2開発部は、「カラー化」「テープのカセット化」および「オートローディング化」の3つを次の家庭用VTRの課題として、おびただしい数の試作品を作ったが、その多くはお蔵入りしていった。そんな試行錯誤の中で、何とかモノになりそうな原型が生まれた。1968年頃のことである。

第2話 自由闊達、「木原学校」

 通称「木原学校」と呼ばれた第2開発部は、校長の木原の「人材を育てながら技術開発をする」というポリシーの下で、技術者たちが木原流商品技術開発の精神を学びながら、伸び伸びと開発できる環境にあった。木原は、ワイヤーレコーダー、テープレコーダー、そしてビデオテープレコーダーという一連のソニーの磁気記録製品開発の陣頭指揮を取ってきた。木原の下で新しいカセット式VTRの開発という難題を担当したのは、堀内昭直(ほりうち あきなお)、渡辺良美(わたなべ よしみ)たちだ。

 木原は“ターゲットを明確にし、集中する”ことを重んじた。ターゲットは、まず「テープのカセット化」だ。そのためには、“テープの使用量を減らす”こと。言い換えれば、テープの同じ面積にできるだけ多くの映像情報を詰め込むことだ。まず、テープそのものの見直しである。これまで広く使われていたガンマ鉄を塗ったテープより、もっと高密度の記録ができるテープはないかと探したところ、仙台工場の人が送ってくれた、酸化クロムを塗ったテープが適していることが分かった。このクロムテープが、カセット用に使うテープの問題を解決した。もちろん、記録用のテープだけでなく、VTR側の高密度記録技術も向上させた。また、カセットにも工夫を凝らした。通常は横並びに配置される供給用、巻き取り用の2つのリールの位置を、上下にずらして部分的に重ねることで小型化を図った。

  • テープに優しい
    “Uローディング”方式
 次は「オートローディング」だ。木原はいつも“無理のない、理にかなう設計”を心がけ、今回も徹底してテープに優しいローディングを目指した。傷つけたり、余計な負担をかけることなく、テープをカセットから引き出し、回転ヘッドドラムに巻き付け、安定して走行させるメカニズムである。投網(とあみ)式、牧場方式などユニークな名前の方式をはじめさまざまな方法を考えたが、研究しつくして生み出された自信作が「Uローディング」方式である。上から見るとちょうど、テープの流れがUの字を描いているように見えるので、こう名付けられた。テープに無理な力をかけずに記録・再生が行える構造になっているため、テープの振動によるジッター(画面の揺れ、ゆらぎ)やテープ走行の不安定さが、原理的に抑えられた。  残る課題は「カラー化」だ。実は、輝度信号とカラー信号をテープ上の別のトラックに記録する「Y/C分離方式」というカラー記録方式がすでにあったが、新たに沼倉俊彦(ぬまくらとしひこ)の発想により、輝度信号の下側に周波数変換をしたカラー信号を入れ、同じトラックに記録する「カラーアンダー方式」が考案された。この「沼倉特許」は、後のVTRのカラー記録方式の基礎となったものである。こうして、技術屋としてのカリスマ性を持つ木原と第2開発部の技術者たち、そしてテープやヘッドを供給する仙台工場など、大勢の人たちの知恵によって3つの目標を達成し、それまでオープンリールVTRの上に乗っていた7インチ相当の大きなリールを、見事にカセットの中に収めてしまった。

第3話 家庭に入れなかった「U-マチック」

 米宇宙船アポロ11号が有人で初めて月面着陸を達成、世界で話題を呼んだ1969年。その年の10月29日、4分の3インチ幅テープを使用したカセットで最大90分のプログラムが再生できる「ソニーカラービデオプレーヤー」の発表の日を迎えた。

  • U-マチックの原型「ソニーカラー ビデオプレーヤー」を発表する井深(左端)
 「社会と家庭生活に一大変化が」という宣伝文句を裏切らず、そこに置かれた四角い箱「ソニーカラービデオプレーヤー」を井深が発表すると、報道陣からは驚きの声が上がった。ビデオプレーヤーの横に一緒に置かれたカセットは、週刊誌の半分くらいの大きさで重さ約450グラム。これを、プレーヤーに差し込めば、ワンタッチで記録・再生が行えるという(記録する場合にはアダプターが必要)。もう、オープンリールのようにテープをいちいち手でかけなくても良いのだ。「見たい映画や演劇およびテレビ番組を、家庭のテレビ画面にカラーで再生できる」と銘打ったソニーの新しい映像媒体の登場を、読売新聞は「もうすぐやって来る映画・演劇のカンヅメ時代」との見出しで大きく報じた。まさに、VTRはカセット方式で本格的に家庭の中に入っていく勢いだった。

 この頃、さまざまなタイプのカセット式VTRが何社からも発表されていた。「世界普及のために、方式・規格の統一をしなくては」というソニーの呼びかけで、話し合いが始まった。そして、1970年3月に、ソニー、松下電器、日本ビクター、その他海外メーカー5社の間で規格統一の合意がなされた。「U規格」の誕生である。ソニーが松下電器や日本ビクターと3社協定を結んだ、初めての経験である。実はここで、ソニーは譲っていた点がある。本当は「U規格」と決まったサイズより20%小さなカセットをソニーは開発していたが、他社が「これでは作りにくくて、価格が高くなる」というのでやむを得ず妥協したのである。

 さて、ともあれ規格もまとまり、いよいよ商品化である。翌1971年9月、大手町・経団連会館において「ソニー・カラー・ビデオカセット」の商品発表会が開かれた。その名も「U-マチック」。プレーヤーの「VP-1100」(価格23万8000円)に加えて、レコーダーの「VO-1700」(価格35万 8000円)も世に送り出された。

 この頃、井深、盛田らはプログラムが記録された、いわゆるレコーデッドテープを映画会社に作ってもらい、「U-マチック」で好みの映画をステレオサウンドで楽しんでもらう、というコンセプトで、本格的な家庭用VTRの導入を考えていた。もちろん、テレビ放送も録画できる。良い番組はいくらでも空中に電波として飛んでいる。

 しかし、VTRのカセット化の道を開き、その基礎となる構造であったものの、「U-マチック」は思ったように家庭には入っていかなかった。その頃のカラーテレビの普及率はまだ40%以下で、レコーデッドテープを家庭で楽しむというライフスタイルは、時期尚早だったのである。さらに、機械は大きいし、値段も高かった。

第4話 文庫本サイズ

 「おっ、そう、こんなものできたの。素晴らしいね、次はもっといいんじゃないの」。これは「U-マチック」の原型を堀内が見せた時に、井深が言った言葉である。いつもこの調子である。井深は、新しい製品が完成するとひとしきり喜んだかと思うと、興味をもう「次」に移しているのである。井深の飽くなき夢の追求は続き、シビアな要求を技術者たちに次々に突きつける。「それはできません」という言葉は容易に認められない。しかし、木原が「井深さんの喜ぶ顔が見たくて頑張ってしまう」と言うように、井深は新しい技術や製品を見ると本当に素直に喜ぶのだ。

 実は「U-マチック」の原型が完成した1969年、早くも次なるビデオカセットの開発の指令が木原に下っていた。目標は「さらに本格的な家庭用VTR」である。「せめてこれくらいの大きさのカセットがいいなあ」井深が見せたのは文庫本サイズのソニー手帳である。本格的な家庭用にするためには、とにかく小さくすることが第一だ。ところが木原もさるもの、そう来るのは自然な流れだ、と驚きもしなかった。よしきた、とばかりに「U-マチック」の開発途上で蓄積したノウハウをつぎ込み、さらに小型のVTRの原型を作り上げていった。電気を河野文男(こうの ふみお)、メカを芹澤彰夫(せりざわ あきお)らが担当した。

 目標をハッキリさせることが技術開発にはもっとも大切なことである。米国のケネディ大統領の明解な目標設定「月へ行こう」が、全米のあらゆる産業、技術の発展を引き起こしたように、「文庫本サイズのカセット」という非常にシンプルなターゲットが担当者全員に与えられ、おのおのがその実現のために、個々の持ち場で目標を掲げて邁進したのである。

  • カセットサイズの目標となったソニー手帳とベータマックス1号機SL-6300
 木原や堀内の生み出したUローディングの「テープに優しい」思想はさらに磨きがかかり、テープをかけたまま早送り、巻き戻しができるようになった。そして高密度記録方式も飛躍的に向上し、テープの使用量は「U-マチック」の3分の1以下になった。これを達成した立役者は「アジマス記録方式」と「新カラー方式」だ。

「アジマス記録方式」は、「U-マチック」開発の頃から木原が温め続けたアイデアだった。従来、テープ上の隣り合わせに並んだ映像記録トラックの間には、何も記録されていないガードバンドというスペースがあった。これをなくせば、もっと詰めて記録できると木原たちは目を付けていた。しかし、再生ヘッドが隣のトラックの信号を拾うのを防ぎ、鮮明な画像を再生する大切な役割がこのガードバンドにある。それならば、ヘッドが隣の信号を拾いたくても拾えない記録方法にすればよいではないか、と考え、生まれたのが、ヘッドの角度を工夫した「アジマス記録方式」である。それでも低周波のカラー信号だけが解決しきれず残ったが、位相を変えてカラー信号を並べる「新カラー方式(PI方式)」を考えつき、ついに解決した。かくして無事ガードバンドをなくし、トラックをぴったり隣り合わせに詰めることで、記録密度は3倍以上になった。当時、他社から小型のVTRが出るとの噂もあり、木原たちは必死だった。

 この2つの新技術を柱に、新しい家庭用VTRの試作は完成に向かっていく。新製品の開発は積み木の城を築くようなものである。たくさんの人が積み木を持ち寄り、理想の城を築くまで積み上げていく。城はいろいろな部品、回路の集大成であり、どの一つが欠けても崩れてしまう。テープなど、高密度記録を支えた仙台工場の部品技術や、半導体グループが「ふんどしパート」と呼ばれる膨大なパート図を基に開発設計した新IC(集積回路)など、さまざまな分野での努力なくしては、完成には至らなかったといえよう。 やがて形になった家庭用VTRの原型を抱えて、開発グループは第2開発部から独立し、製造準備に取りかかった。

1973年のことだった。「木原学校」では、ある製品の開発が終えると、開発担当者がそれを抱えて、自ら、製造、ビジネス部門に立ち上げを行うべく巣立っていく。「商品化の最後まで、責任をとれ」ということである。このやり方は、製品の開発思想・コンセプトを最後まで貫いた製品作りに効果的であった。

第5話 「これは革命だ」

 こうして、ついにでき上がったのは、文庫本サイズのカセットを使用し、「U-マチック」の3分の2の質量になった家庭用VTRである。テープは2分の1 インチ幅。盛田は「これは革命だ」と思った。1973年頃にはカラーテレビと白黒テレビの普及の比率が逆転していた。ここ数年来の「ポストカラーは?」の呼び声の中、主力商品を探しあぐねる家電業界に、自信を持って紹介できるソニーからの答えだった。この家庭用VTRは、テレビにつないでその映像と音声を 1時間記録・再生できる。つまり、テレビの番組表に縛られることなく、家庭にいる1人ひとりが好きな時に見たい番組を見られるようになるのだから、ライフスタイルを変える「革命」だった。

  • カラーテレビに次ぐ商品として期待を込めたベータマックスの発表会
 まず、この家庭用VTR決定版に良い名前を付けようということになった。木原たちが開発した「アジマス記録」は、通称「ベタ記録」(詰めてベタに記録する)と呼ばれていた。そこから、「ベータにしよう」という案が出た。よく見れば、ちょうどテープをローディングした形が、今度は“U”でなく“β(ベータ)”の字に似ている。しかも“ベータ”という言葉の響きは、“ベター(より良い)”という英語にもつながり、縁起が良い。それに“マックス(最大)”を付けて、「ベータマックス」という名前が誕生した。  次は、この「ベータマックス」がなぜ家庭に必要なのか、どう使うか、を世に訴えなければいけない。それも分かりやすくインパクトのあるひと言で表したい、と盛田は考えた。そして生まれたのが「タイムシフト」という言葉だ。ある時間帯に電波として一方的に流しているテレビ番組も、「ベータマックス」を使えば、「自由に好きな時間にシフトして見ることができる」という新しいコンセプトをこのひと言に込めたのである。  1975年にはカラーテレビの普及率は90%を超え、国民生活に密着していた。ラジオとテープレコーダーの関係のように、カラーテレビと家庭用VTRの関係も築けるに違いない、という確信が盛田たちにはあった。機は熟していた。1975年4月16日に、「ビデオテレビ」と銘打ってビデオデッキ単体「SL-6300」と、それを18型のトリニトロン・カラーテレビと組み合わせたコンソールタイプの「LV-1801」が発表され、翌5月10日には全国で発売された。「SL-6300」の価格は22万9800円。これは「U-マチック」の6割強で、大型カラーテレビとほぼ同じ値段である。使用するビデオカセットテープは60分タイプで4500円と、これも「U-マチック」の半分以下と大幅に安くできた。
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