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第2章 規格戦争に巻き込まれた秘蔵っ子 <8ミリビデオ>

第1話 規格戦争に巻き込まれた秘蔵っ子

 家庭用VTR「ベータマックス」発売の翌年の1976年は、ソニーの創立30周年であった。ソニー会長となった盛田は、この年、ポストカラーテレビの本命としてVTR時代の到来を告げる「ビデオ元年」を宣言した。「トリニトロン」以降、久し振りの期待の大物新商品だ。国内中の販売会社が燃えて、ベータマックスのビジネス立ち上げを最重要課題として取り組んだ。当時はVTRの国内需要がまだ10万台未満であり、自信たっぷりのソニーの「ビデオ元年」宣言に、本当にそんなに家庭用VTRが普及するのだろうか、と業界も半信半疑だった。ソニーは家庭用VTRベータマックスで勢いよく走り出したかに見えたのだが、このビデオ元年にびっくりすることが起こった。

 9月、日本ビクターがソニーの「ベータ規格」に対抗する独自の「VHS規格」のVTRを発表し、追撃を開始したのだ。それも、記録時間はベータマックスの倍の2時間である。実はベータマックス発表の前年に、ソニーは初めてのカセット式VTR「U規格」で提携した松下電器と日本ビクターには、ベータマックスの試作機と技術を見せて規格統一を働きかけていた。これに対して両社からは1年間というもの全く反応がなかったのである。日本ビクターは、ソニーの「ビデオ元年」宣言とそれに続く積極的な販売戦略に対抗して、派手な宣伝活動を開始した。

 VHS方式を調べてみて、皆、がく然とした。ソニーが、U-マチック、ベータマックスの開発時から規格統一のために惜しみなく公開してきたVTR技術やノウハウを、ふんだんに採り込んで作り上げている、そんな印象を禁じ得なかったのだ。ソニーと両社はU規格の仲間だ、VTRの基本技術の特許を彼らが自由に使えるようになっていたとはいえ……。驚きとショックは隠しきれなかった。

 ソニーの考案したベータ規格と日本ビクターの推進したVHS規格は、技術内容は似ていながら、カセットの大きさが異なり、互換性が全くない。複数の規格が出ることは家庭用VTR市場で激しい主導権争奪、シェア獲得競争が繰り広げられることを意味した。消費者のためにもぜひとも避けたかった事態であったが、「VTR戦争」の火蓋はこうして切られた。
 ソニーと日本ビクター両社の各ファミリーづくりは、1976年を通して進んでいく。U規格の盟友である松下電器は、依然として態度を鮮明にしない。そして年の瀬も押し迫った頃、大阪の松下電器本社を訪れた会長の盛田、木原たちは松下幸之助相談役から結論的な話を聞かされた。部屋の机の上には、カバーがはずされたソニーの製品と日本ビクターの製品が置かれており、「ベータも捨てがたい。でも、どう見ても日本ビクターのものの方が部品点数が少ない。私の所は 1000円でも100円でも安く作れるほうを採ります。後発メーカーとしてのハンディキャップを取り返すためには、こちらは製造コストの安いほうでやるしかありまへんな」
 こうしてソニーのベータ規格側には東芝、三洋電機、日本電気、アイワ、パイオニアが、日本ビクターのVHS規格側には松下電器、日立製作所、三菱電機、シャープ、赤井電機と、家電業界を二分するこんな構図ができ上がった。

 もちろん、ソニーは家庭用VTRの決定版ベータマックスに絶対的な自信を持っていた。記録時間は1時間と短いものの、カセットサイズが小さく、画質が絶対的に良い。しかも、実はその高画質を維持しながら、2時間の記録時間を実現する技術開発および設計も終了していた。できることなら、自社規格を基本に統一したかった。そのために、試作機を公開するなどの努力を続けてきたのである。

 ソニーはベータ陣営の中心として激烈な戦いに乗り出した。両陣営の新製品ラッシュが続く。高画質化、記録の長時間化、多機能化、操作性の向上など、あらゆる挑戦がハイペースで進んだ。

 1979年になると、家庭用VTRの業界全体の生産規模は220万台に達し、「ビデオ元年」を宣言した1976年から比べると3年で約8倍になっていた。規格は真っ二つに分かれたものの、確かに「ビデオ時代の到来」を告げていた。

第2話 「VTRの総合メーカー」へ


  • 家庭でVTRを楽しむ文化が育っていった
 VHS陣営のファミリーづくりは、実に巧みだった。欧米家電メーカー大手への積極的なOEM供給(相手先ブランドによる製品供給)作戦、そして、ソフトウエアビジネスの展開——ベータは開発も発売も先行したものの、日に日に劣勢となっていった。そのうちベータ陣営の東芝、三洋電機、日本電気もついに、輸出用に限ってとはいえVHSの併売に乗り出した。

 そんな折、1984年1月25日から4日連続で主要新聞に出されたソニーの広告は、目を引いた。「ベータマックスはなくなるの?」「ベータマックスを買うと損するの?」「ベータマックスはこれからどうなるの?」とネガティブな問いかけで畳みかけ、最終日に「ますます面白くなるベータマックス!」と締めくくったこの広告手段の奇抜さに、世間はびっくりした。ベータ方式の劣勢を報じるマスコミ、そしてベータファンの抱く不安に対するソニー独特の応じ方であった。

 しかし、ソニーの意に反して、これを機にベータ離れは加速され、1988年、ついにソニー自身もVHSの発売に踏み切り、2方式併売で臨む方針を打ち出した。「できることならVHSはやりたくなかった。しかし我々は意地でビジネスをやっているわけではない。現実を見よう。ソニーのVHSが欲しい、という声が市場から大きくなってきた。一時つらい時期があっても、今後の発展のためにはやるべきなのだ。

 どうせやるのなら『VTRの総合メーカー』としてナンバーワンを目指す姿勢でいこう。高画質録画に最適なベータマックス、コンパクトでパーソナルユースに最適な8ミリ、そしてレンタルソフトビジネスに対応したVHS、これら家庭用VTRのどのフォーマットにも対応できるのはソニーだけだ。この強みを活かして、お客さまの多様なニーズに応えていこう」。1972年頃からずっと家庭用VTRの普及に尽力してきた副社長の盛田正明(もりた まさあき)は、社員にこう呼びかけた。

 ソニーは、思いどおりに2分の1インチの家庭用VTRの規格統一はできなかったものの、VHS方式と競合しながらベータマックス方式を推進していく過程で、いろいろなことを学んだ。規格統一の進め方の教訓が、ソニーの中にしっかりと残った。

 また、家庭用VTRの市場創造を目指し、先陣を切って「タイムシフト」(時間に拘束されずにテレビ番組を見られる)の概念とともにベータマックスを市場に送り出したことの意義は大きかった。その後の映像ビジネス、人々のライフスタイルを変えていくきっかけとなり、同時にソフトビジネスの重要性が強く認識されるようになったのである。

第3話 もっと小さく


  • 東京でビデオムービーを発表する岩間(左)と森尾(右)
 さて話は前後するが、U-マチックやベータマックスの開発を終えた第2開発部では、息つく間もなく次なる挑戦が始まっていた。彼らの飽くことなき夢の追求は続く。名誉会長の井深は「ベータマックスが過去のものになるような開発をやりなさいよ」と、もう次世代フォーマットの開発を促した。1977年のことである。U-マチック、そしてベータマックスと続いてきた「より高密度記録、より小さく」という流れの中では、必然の流れであった。

 木原の下で、この開発の中心になったのは、テレビ事業部から移ってきた森尾稔(もりお みのる)である。森尾自身も、他の開発メンバーも、VTR開発は初めてという「素人集団」だったが、過去の経験に捉われない新鮮な発想が武器だった。木原は「ベータマックスの寸法をすべて2分の1にするようなVTRを作れ」と森尾に命令した。これは、体積を8分の1にすることを意味していた。
 「どうせ新しいフォーマットに挑戦するなら、記録密度を10倍に上げよう」。今度は、井深である。井深はよく木原の所に来て、記録密度を上げるためにはどうしたものかと話をしていた。ベータマックスの時と同様、開発メンバーの前に単純明快な目標と高いハードルが置かれた。
 そうなるとカセットサイズも、今度は文庫本サイズでは済まない。「オーディオカセットぐらいが手に持ちやすいし、ラベルにも書きやすいな」と森尾たちは目標を定めた。1979年初めには、「80年代の次世代VTRを目指そう」と「80(ハチマル)プロジェクトチーム」を旗揚げし、本格的な開発体制を整えた。

 1980年1月には、社長の岩間から「CCDカメラを使って録画・録音のできるカメラ一体型VTRを作れ」という新たな指針が出された。ちょうど、撮像管に代わり、新しいカメラの「眼」となる、半導体の一種であるCCD(電荷結合素子)が産声を上げ、歩き始めた頃だった。

 中央研究所では、1970年代初頭からCCDの開発に取り組んでいた。CCDは「光」の情報を「電気」の情報に変えるもので、従来使われていた「撮像管」ではなくこのCCDをカメラに使うと、ビデオカメラの大幅な小型化が実現できる。1980年1月には、このCCDを使った初めてのカラービデオカメラを航空機搭載用に実用化しており、今度の小型VTRにもこのCCDを使うというのだ。本格的な試作が始まり寝食を忘れる日々が続き、やがて4ヵ月が過ぎた。

 そして1980年7月、ニューヨークで盛田が、東京では岩間が記者団を前に「ビデオムービー」を同時発表した。わずか4ヵ月間の成果である。CCD撮像素子を使用したカラーカメラと8ミリ幅のテープを使用したビデオカセットレコーダーを一体化したもので、総質量が約2kg。それまでのポータブル・ビデオ・システムといえば、カメラとベータマックスをケーブルでつないだもので、総質量が10kgもあった。また、新しいカセットはオーディオカセットよりはるかに小さいマッチ箱大、これで20分の記録ができるという画期的なものだった。

 この発表会はもう一つの意味を持っていた。「規格統一の呼びかけ」である。「これをたたき台にして、一緒に規格の統一をしましょう」という姿勢で臨んだ。ビデオムービーは、あくまでコンセプトの発表であった。そのため、商品化の時期は5年後の「1985年を目標に」とゆとりを持たせた。ベータとVHS がしのぎを削っていた時期である。「互換性のない規格がお互いに競争状態を続けていたら、業界の発展を妨げ、ユーザーも迷惑する」と、ベータマックスの苦い思いから、盛田をはじめ皆が規格統一の重要性、進め方の教訓を得ていた。

 同じ年の9月に日立製作所、翌年2月には松下電器がそれぞれ似たようなカメラ一体型の小型VTRを発表すると、彼らに日本ビクター、フィリップスを加えて「5社委員会」が発足した。各社それぞれの提案をぶつけ合いながら、規格化の話し合いは進んだ。これがやがて、1982年3月には世界122社(後に 127社)が参加する「8ミリビデオ懇談会」へと発展していく。ビデオムービーの開発を終えていたソニーは、規格さえ決まればすぐにでも商品化できる状態だったが、ゆっくりと、しかも確実に規格統一の話し合いは進んだ。

第4話 「25万画素」の画質


  • カメラ一体型8ミリVTR1号機
    「CCD-V8」
 ビデオムービー発表後、規格統一の行方を見定めながら、第2開発部では着々と8ミリVTR商品化第1号機の開発が進んでいた。機械のどこをとっても、従来の2〜3倍のレベルの性能を、短い期間で実現し完成度を高めなければならない。また、規格統一作業と並行させながらの商品開発であるから、いつ、変更が入り、せっかく行ったことが無駄にならないとも限らない。そんな危惧を抱えながらの開発、商品化の作業だ。精神的にも緊張状態が続く。さらに、80プロジェクトチームは、従来のように単純に電気、メカ部隊に分けるのではなく、解析、実装(電子部品の基板挿入)、LSI(大規模集積回路)部隊を加えた5つのチーム編成となって小型化を目指して開発を進めていった。

 「開発した人が設計、製造すべし」という考えに基づいて組織変更するのは、前述のとおりソニーの良いところだ。トリニトロンしかり、ベータマックスもしかり。1981年11月、森尾をはじめとする開発メンバーは、8ミリフォーマットの開発の目鼻がつくと、8ミリの原型を抱えて、第2開発部からビデオ・カメラ事業部のある厚木工場へと引っ越し、商品化へ向けての作業に入った。
 厚木工場には、一足先の1978年にCCD開発部隊の越智成之(おち しげゆき)らが中央研究所から引っ越して来ていた。「一緒にやりなさい」というトップの決断で、記録系の森尾グループ、カメラ系の越智グループが、8ミリVTRの完成に向けて集結したのだ。
 発売ターゲットは、8ミリの「8」にちなんで当初1984年8月8日に定められた。

 ところが、当時のCCDは、色はきれいだが、まだまだ解像度が不足していた。CCDは「画素数」を上げると画がきめ細かくきれいになるが、つくるのは難しくなる。19万、そして25万と徐々にこの「画素数」を上げていこうと越智は考えていた。そして「画質の良さ」を譲りたくない8ミリVTR用には、 CCDが間に合わない場合を考えて、ソニーが商品化した独自のカラー撮像管「トリニコン」の開発も同時に進めた。

 しかし、越智たちにいきなり「頂上を目指せ」という指示が出たのだ。「もう撮像管で保険をかけるのはやめて、CCD1本でやったらどうだ。25万画素の画質が良いと思うのなら、良いと思うものを最初からやってみよう」という、半導体ビジネス担当である副社長の森園正彦の一言があったのだ。越智たちはまさに背水の陣を敷くことになった。

 森園の読みどおりだった。保険をなくした越智らは奮い立ち、信じられないスピードで「25万画素」のCCDを完成させてしまった。実は、8ミリVTRの設計部隊は、当初の発売日に間に合わせるべく、トリニコンを使った製品を完成しかけていた。急遽CCDを採用した設計変更をすることになり、彼らも死にものぐるいで頑張り、驚異的なスピードで仕上げた。

 一方「8ミリビデオ」の規格も、懇談会での2年間にわたる話し合いの末、1984年4月に無事まとまった。

 1985年1月8日、ついに記念すべき第1号機の「CCD-V8」は発表の日を迎えた。やはり8という数字に強くこだわった。究極のサイズを狙ったというより、画質を重視した。発表会のデモが始まると、「CCDが使われていて、しかも画質が良い」ことが報道関係者たちの興味、関心を呼び、大きな反響があった。発売は同月の21日、価格は28万円。
 「画質の良さの半分はCCD部隊の頑張りのお陰。無理をして入れ換えて良かった」と森尾は越智たちに感謝した。

 次世代フォーマットの必要性をいち早く察知し、井深が与えた「記録密度10倍」という高いハードルは、8年かけて、ついに飛び越えることができたのである。

第5話 夢の8ミリビデオ


  • プロジェクト88のメンバーに手渡されたデザインスケッチ
 こうして、世に出た8ミリVTRだが、周辺が少し騒がしくなった。「VHSの牙城は守る」と、日本ビクターが「巻き返し作戦」とばかりに、VHS標準カセットの4分の1の大きさのCカセットを開発、「VHS-C・カメラ一体型VTR」を発表し、世界の家電メーカーに「VHS-C方式」の採用を呼びかけたのである。

 そのうち、社内でも「8ミリになっても、本体は大して小さくならないじゃないか」「向こうのほうがむしろ小さいじゃないか」という声さえ聞こえてきた。
 確かに、まだ究極のサイズを狙ってとことんまで実装技術を高めているとは言えなかった。
 また、森尾が販売店に行き、いろいろ説明していると、「8ミリは小さい小さいと言うけれど、結構不便だよ。旅行に持って行きたくても、鞄に入れるとレンズのキャップは外れるし、ビューファインダーのアイキャップも外れるし……」とお店の人から言われる。

 VHS-C陣営との、サイズや質量に対する競争はさらに激しくなってきた。森尾たちは小さく軽くしてみようか、やはり画質にこだわるべきか、デザインを少し変えてみようか、といろいろなモデルを出しながら試行錯誤を続けた。3年間くらいは開発費ばかりがかさみ、赤字状態になっていた。世の中を見てもデザインの基調は大体似たり寄ったりである。「8ミリらしい製品、ソニーらしい夢のある製品とは何だろう」。森尾たちは商品戦略を根本的に見直してみることにした。

 まずデザイナーだけで「夢の8ミリビデオ」の社内コンペを行った。すると、ソニーらしい「夢」のある商品のデザインがたくさん集まった。これらのスケッチを基に、「1988年8月8日8万円」の商品化を目指す「プロジェクト88」が1986年末に始まった。

 森尾をプロジェクトマネージャーとする総勢8名の「プロジェクト88」チームの使命は、マイクやレンズなどの「出っ張りをなくす」こと、とにかく小さくすることであった。「今までのデザインは忘れてもよい、世の中をあっと言わせる隠し玉をつくろう」と森尾は言い渡した。同時に、片手で持って撮れるようなコンパクトカメラ並みのサイズでありながら、「性能面・機能面での妥協はしない」という目標もあった。

 最初に大きさありきで、中身を詰めこんでいくのは、伝統的に得意である。折しも、高密度実装、要素技術開発が全社的に進んでいたので、二人三脚でプロジェクト88は進む。やがて、1988年が明けると、プロジェクト88の1年間の成果は、商品設計部隊に引き継がれた。森尾も先頭に立って、取りあえず作ったモックアップ(実物大に作った模型)を本社、工場、関連事業部などに見せて歩く。最初は、撮影時に、手のひらがカセットの蓋を押さえる形になるデザインに、「常識では考えられない」と反対の声も多かったが、そのうち、少しずつ、全社的な協力が得られる大規模なプロジェクトになっていった。

 頭痛の種は出っ張ったままのマイクだった。感度の良いマイクは、本体に内蔵しようとすると機械の回る音まで拾ってしまう。しかし、これは技術研究所が解決してくれた。マイクを2つ使って、内部のノイズはキャンセル、外部の音だけ拾うという素晴らしい技術があったのだ。次は6倍ズームのレンズをどうやって本体の横に埋め込むか。「性能面では妥協したくない」と小さな6倍ズームレンズを作ってみたものの、レンズを小さくしたせいで明るさが低下し、画像が暗くなってしまう。困っていると、ここで再び活躍したのは越智たちである。CCDの感度を2倍に上げてくれたのである。

 デザインに始まり、設計の発想・手法、材料、コンピューター関係、製造に至るまで、すべての分野で新しいアイデアが導入され、全社の力を結集させて、夢の8ミリVTRは完成に近づいていく。


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