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第4章 「24時間サービス体制」 <放送業務用VTR>

第1話 「24時間サービス体制」


  • 1977年、欧米の拠点と力を合わせた放送業務用機器の開発に対し、ソニー・アメリカより感謝状をもらう森園<左から4人目>
 「お客さまのいる現場に行け」が森園の口癖だったが、行かなくても、お客さまのほうから逆にお見えになることもあった。
 放送局用のU-マチックVTR・BVシリーズの第2世代を開発している時だった。アメリカで開かれた放送業務用機器展「NABショー」のソニーのブースに、米3大ネットワークの1つであるNBCの人がやって来て、ソニーの技術者を自分たちの滞在するホテルへ案内したのである。ホテルの一室には、大きくて重い機械が運び込まれ、ソニーの技術者たちに見せるためだけの即席の編集室が作られていた。「私たちが現場でどのような苦労をしているか見せたい。そしてそれを解決する機械をぜひ作ってほしい」。そう言って、並べた機械を使って実際に編集作業を見せてくれた。放送局用機器は放送オペレーションのための命である。彼らは、使用上の具合の悪い点をメーカーにフィードバックし、改善を求めたのである。ソニーの技術者たちは作業の様子を観察し、帰国すると早速それを開発中の機械の設計に採り入れた。

 勉強し、勉強させられる、そんな毎日であった。そして、お客さまとのコミュニケーションの中で得られたノウハウは、ソニーの放送業務用機器ビジネスの貴重な財産として、蓄積されていった。
 森園たちがまず思い知らされたのは、放送局のビジネスが24時間待ったなしということだ。テープの頭出しが少し遅れたり欠けたりして放送番組に穴があくと、その放送局は莫大な損害を被る。森園たちは、そのために徹底的に機械の信頼性向上に取り組んだ。
 また、森園たちは、日本に加え、アメリカ、そしてヨーロッパと、本格的な放送業務用機器ビジネスの拠点を作っていった。放送業務用機器は、その国、地域によって異なる放送規格に基づいて作られているため、販売・サービスなど、それぞれの地域に合った対応が必要であった。

 ヨーロッパの拠点をつくる時には、こんなことがあった。森園は「ヨーロッパ全体の放送局に顔が利き、技術に詳しくて、ビジネスマインドを持った人に任せたい」と思い、イギリスIBA(イギリスの独立放送協会)の技術局長、EBU(ヨーロッパ放送連盟)の局長を歴任したハワード・スティル氏に、誰か適任者を紹介してほしいと頼んでみた。すると、しばらく考えてから、「打ってつけの人がいる。今度スイスのモントルーで開かれる放送業務用機器展に来るだろうから、紹介するよ」という返事だった。スティル氏は非常に豪快で、評判の良い人であり、彼が薦める人ならきっと大丈夫だろう、と森園は次回会うのを楽しみにした。

 いよいよモントルーの放送業務用機器展が始まり、森園が滞在するホテルにスティル氏から電話があり、例の人物に会わせてくれると言う。待ち合わせのレストランに行くと、スティル氏が1人で座っていた。「例の人はどこに?」と森園が尋ねると、微笑みながら「目の前にいるよ」と言うではないか。冗談好きでユーモアたっぷりの人と知られてはいたが、これには森園もびっくりした。
 かくして1978年、ハワード・スティル氏をソニーに迎え、SBC(Sony Broadcast Limited=現Broadcast and Professional Europe)がイギリスに設立された。その後、スティル氏と彼の下に集められたメンバーによって、ヨーロッパの放送ビジネスは急激な伸びを見せていった。

 一方、アメリカで業務用VTRのセールスに携わっていた角田浩一は、放送業務用機器ビジネスを始めるにあたり、「放送局に対して、メーカーとしてやるべきことをすべてやってくれ」と森園から言われた。そこで、「24時間サービス体制」を敷くことにした。サービスマン全員に、ポケットベルを、そして車の中に修理キットを積み込ませ、故障が起きると、たとえ夜中であっても駆け付け、翌朝までに直すというものである。最初、挨拶回りに行った時には、「あなた方のようなコンスーマー相手のメーカーに、我々のオペレーションをまかせることはできない。我々はプロ集団だ」と相手にしてくれなかった放送局も、半年くらい経つと、「ソニーはなかなかやるな」と言ってくれるようになった。「ソニーに電話をすれば、少なくとも半日、長くても丸1日で直してくれる。今までそんなメーカーはなかった。ソニーは、ユーザーのことをよく考えてくれる」と認められるようになった。ヨーロッパの SBCでも、早速アメリカと同様に、24時間サービス体制が敷かれた。

 森園は、「サービスのできない所へ売っては駄目だ」と常々セールスマンに説いていた。セールスマンは、お客さまがいればたとえ地の果てでも行って売りたがる。しかし、森園は、「売れれば良いというものではない。買った機械が動かなくなって、サービスを受けられなければ、二度と我々の製品は買ってもらえない。信頼してもらえなくなる」という信念を持っていた。

 こうして、世界の3極に拠点を構え、徹底的にユーザーの要望に応え、お客さまとの間に信頼関係を築くことで、ソニー独自の放送機器ビジネスは根を張っていった。また、各拠点では、販売、サービスだけでなく、ユーザーのニーズに合わせた放送業務用機器やシステムの設計、研究開発に拍車がかかった。

第2話 ベータカム登場


  • ベータカムの登場でさらに機動性がアップ
 カセット式VTR・U-マチックによるENG(Electronic News Gathering=ビデオによるニュース取材)システムもすっかり定着し、屋外のニュース取材は、格段に楽になった。しかし、それでもカメラマンの後ろには、VTRを操作する人、サウンドエンジニアなど、4〜5人が相変わらず付いていかなければならない。また、カメラとVTRをつなぐケーブルがじゃまをして動きが制限されるなど使いにくい面もあった。「より小型・軽量で使いやすく、人手を減らせるシステムが欲しい」、という声が放送局の現場担当者たちから聞かれるようになった。

 この要望に応え、新しく登場したENGのフォーマットが「ベータカム」である。ソニーは、1981年4月、家庭用VTR・ベータマックスと同サイズのビデオカセットを使用し、放送局のハードな使用に耐えられる性能と信頼性を実現した、カメラ一体化VTR「BVW-1」をNABショーで発表した。その当時、社内の別部門でベータマックスを使って業務用カメラ一体型VTRの開発が進められていた。これにU-マチックを用いた放送局用VTR・BVシリーズの画質改善の技術検討の成果が加わり、新しいフォーマットの放送局用カメラ一体型VTRとして誕生した。一方、松下電器も、これに競合するVHSカセットをベースとした「Mフォーマット」をすでに発表しており、どちらがENG市場を制するか、競争となった。

 当時、家庭用のベータマックスはフォーマット競争に苦戦していたが、放送局用のベータカムへの評価はその後どんどん高まり、ついにはENG市場の95%を占めるスタンダード機になっていった。U-マチックにより、1970年代前半から築いてきた、ソニーの放送機器ビジネスの実績に対するユーザーの信頼感が決め手となった。

 ベータカムが浸透し、「編集もベータカムでやりたい」というユーザーからの要望が高まってきたところで、1983年、編集機能付きレコーダー「BVW- 40」を導入、撮影から編集まですべてをベータカムでできるラインアップが完成した。ソニーの放送業務用機器ビジネスの基本は「ユーザー第一」。撮影から編集、番組送出まで、ユーザーの使い勝手、投資効率を常に考えた商品作りが行われた。

 その後松下電器も、メタルテープを使用して高画質化を図った「M2フォーマット」で、巻き返しに転じたが、ソニーもメタルテープ化を図った「ベータカム SP」を仕上げて対抗した。1986年導入の「BVW-505」が、ベータカムSP第1号機だ。画質のみならず、ベータカムとの互換性を保ったこと、さらには米アンペックス、独ボッシュ、仏トムソンの3社とのファミリーづくりの成功などが、さらに普及を推進した。
 競争は、技術の進歩をもたらす。「M」「M2」というライバルとの二度にわたる競争により、ソニーのENG機器はその機動性、性能を飛躍的に向上させたのである。

第3話 デジタル時代の到来


  • 1979年3月の米・放送業務用機器展でソニー初のデジタルVTRの説明をする江口
 「VTRのデジタル化はできるだろうか」。こんなやり取りが1976年頃、VTRを開発する技術者の間で交わされていた。当時、「何回ダビングしても画質の劣化しないVTRが欲しい」という声が、テレビCM制作者などから挙がっていた。確かに、デジタル化すれば、理論的には画質の劣化はないはずだ。しかし当時は、音声信号のデジタル化でもやっと物になるかどうかという時であり、映像となれば、さらに膨大な周波数帯域を必要とするのだから、大半の人は無理だと考えていた。このような状況の中で、1977年3月、ソニーの中央研究所でデジタルVTRの原理的な基礎研究が始められた。

 森園の号令で本格的なプロジェクトが始まったのは、その1年後のこと。森園をやる気にさせたのは、SBCの社長に就任してヨーロッパの放送業務用機器ビジネスを順調に成長させていたハワード・スティルだ。「これからはデジタル時代だ」という彼の熱心な言葉が、森園を動かした。アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)でデジタルVTR技術を学んで帰国した江口武夫(えぐち たけお)も加わり、森園の指揮の下に、欧米の研究開発の部隊も含めた本格的な活動が始まった。
 明けても暮れてもデジタル化を考える日々が始まった。磁気記録メディアを担当する仙台工場にも出かけ、「デジタル時代の到来」を語り、テープやヘッドの性能を上げてもらった。そして、研究開始からわずか1年半でデジタルの画像が出たのである。

 1979年にソニー、アンペックス、ボッシュの3社がNABショーなどで開発成果を披露してから、本格的なデジタルVTRの開発競争が始まった。メーカー、ユーザー両方の利益を考えて、全世界共通の規格を作ろうという動きが起こった。しかし、これは大変な作業である。世界のカラーテレビ放送方式には日本やアメリカなどが採用している「NTSC」と、主にヨーロッパ諸国が採用している「PALSECAL」が存在する。これを、1台の機械でどの方式にも使えるように国際標準化しようというのである。

技術論争の舞台となったのは、1インチVTRの規格統一の時と同様、SMPTE(全米映画テレビ技術者協会)である。ここで、業界の各種推奨基準が決定されていた。当時デジタルVTRは、SMPTEの最もホットなテーマとなった。江口たちは頻繁に渡米して会議に出席し、世界の各放送局やメーカーからはそれぞれ20〜30人が送り込まれて勢いのよい議論を繰り広げる中、必死に技術説明や説得、議論を交わした。ソニーのほかには、日本人はほとんど見あたらなかった。
 やがて懸案だったヨーロッパ勢との調整も終わり、13.5メガヘルツという世界共通のサンプリング周波数(アナログ映像信号をデジタル化する時に、パルス信号として1秒間に取り出す回数)が決定した。異なる文化を持つさまざまな国の人たちの中で意見を調整していくこの会議は、まさに国際交流であった。

 国際標準が決まり、それに基づいた商品化が進んだ。そして、1986年。ソニーは他社に先駆けて世界初コンポーネント・デジタルVTR(D1)の「DVR-1000」を発表(1987年納入開始)。さらに1988年には、世界初コンポジット・デジタルVTR(D2)の「DVR-10」を発表した(同年納入開始)。映像信号を構成する色信号や輝度信号などを個別に処理するコンポーネント方式のD1は、画像の品質が極めて高いので、放送局やプロダクション・ハウスの本格的な制作用に向いている。また、各映像信号を複合化した形で処理するD2は、従来のアナログ信号記録方式の1インチVTRに置きかわる放送局の制作・送出用デジタルVTRとして、広く活用されていった。

第4話 「放送局 丸ごと面倒みます」


  • 第17回冬季オリンピック会場(リレハンメル)ではデジタルベータカムをはじめソニーの放送業務用機器が活躍した
 映像のデジタル化により、放送システムの新たな時代が始まった。
 高品位の映像制作のためのVTRのデジタル化は急速に進んでいく。同時に、ソニーの放送業務用機器ビジネスは、ユーザーの要望に完全に応えることを基本としながら、「単品商品のビジネスを脱皮し、周辺機器も含めたトータルシステムを提供する」という方向性を、強くアピールしていった。1987年には、プログラムの入ったカセットを完全自動で送出・管理を行う「LMS(Library Management System)」を開発し、放送局内のオペレーションの自動化も進めた。

 毎年春にアメリカで開かれるNABショーを見ていると、世界の放送業務用機器ビジネスの動向がよく分かる。ソニーは、1989年に「システム・ソリューション」、1990年に「デジタル時代」をテーマに掲げた展示で、各社に先駆けて「デジタル化」「ユーザーの要望に応えたトータルシステムの提供」を積極的にアピールしていった。VTRだけでなく、番組制作時の編集用に必要な各種周辺機器、スイッチャー、エフェクターなども併せてデジタル化し、ますます多彩な映像加工を実現するフルデジタルの編集システムを構築できるようになっていった。1990年代に入ると、各社もデジタルシステムの実用機を発表し、本格的なデジタル時代の到来が感じられるようになった。

 これまでスタジオ制作用のVTRに限られていたデジタル化の波は、機動性を求められる屋外取材用の分野にも拡がっていった。ソニーは、1993年3月、 2分の1インチ・デジタルコンポーネントVTR「デジタルベータカム」を商品化した。放送業界ではタブー視されていた画像圧縮に果敢に挑戦し、独自の画像圧縮技術を開発、高画質のデジタルコンポーネント記録を実現しながら、ベータカムと同じサイズと低価格化を実現した。これまで、圧倒的な支持を受けてきたアナログコンポーネント方式のベータカムフォーマットとの互換性を維持し、段階的に次世代のデジタルシステムへ移行できるよう、ユーザーのメリットも考慮した。実際、D1よりもはるかに低価格で、実用的にコンポーネント映像を実現するデジタルベータカムの出現に、世界の放送局からの反響は大きかった。

 従来、コンポーネント方式の記録では、高画質を実現するためにケーブル本数が多かったが、ソニーは1本の同軸ケーブルでデジタルコンポーネント信号とデジタル音声信号の各機器間の伝達を可能にする「SDI(Serial Digital Interface)」の実用化に1989年に成功した。これにより、システム構築が大幅に容易になった。1994年開催のリレハンメル(ノルウェー)冬季オリンピックの国際放送センターや米ヒューズ社のディレクTVへ、大量のデジタルベータカムとSDIをフルに生かした放送システムを一括納入し、高い評価を受けた。

 コンピューター化の波も、放送システムの進化の流れに加わってきた。コンピューターを用いることにより放送局のオペレーションの自動化を一層進め、効率化していくことができる。放送システムが高度化していくと、人に頼る機器の保守管理には限界があり、人手を増やしては効率的でない。そこで「コンピューターの力を借りてシステム自身に自己診断機能を持たせよう」と開発されたのが、「ISR(Interactive Status Reporting)」である。1994年1月に実用化され、小人数で放送局内のたくさんの機器の動作状況を、一括して効率的に管理できるようになった。

 ソニーは、この20余年の間に開発してきた放送業務用機器の数々により、放送界で最も権威のある「エミー賞」(米国テレビ芸術科学アカデミーから、テレビ芸術や科学技術の発展に寄与した企業・団体や個人に対して授与される賞)を受賞した。1973年、トリニトロンカラーテレビの開発で最初にこの賞を受賞して以来、U-マチック、1インチ(タイプC)、ベータカム、D1、D2、そして、1995年度のデジタルベータカムの受賞で、実に通算20件のエミー賞の受賞を記録した。

 現在、ソニーの放送業務用機器の開発、製造、販売を行う担当者たちは、「それぞれのユーザーの要望に沿い、デジタル化・自動化された効率的な放送局のシステムを丸ごと提案していこう」という姿勢で取り組んでいる。
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