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第5章 コンパクトカセットの世界普及

第1話 コンパクトカセットの世界普及


  • コンパクトカセットと「TC-100」
 ソニーが日本で初めてのテープレコーダーG型と磁気テープ「Soni-Tape」を世に送り出したのは1950年のことだった。以来オープンリール方式のテープレコーダーは官公庁、学校、放送局、そして家庭へと普及していった。また、50年代にはステレオ化、トランジスタ化も実現した。
 1960年代には大賀を第2製造部長として、オープンリール方式のテープレコーダーを使いやすくしようと取り組んでいた。1964年に発売した“ソニオマチックセブン”「TC-357」は、自動録音レベル調整機能を搭載、さらにはエスカレートドライブ機構によりテープをかけやすくするなど、操作性の向上を図った。しかし、大賀はオープンリール方式には限界を感じていた。

 1958年にアメリカのRCA社が「カートリッジ」を考案したのを皮切りに、世界の各社が“カセット”“マガジン”などまちまちの名前と仕様で、磁気テープをケースの中に収納したものを開発し始めた。共通しているのは、テープ装填の手間がかからないことである。ポンッとレコーダーにはめ込めば簡単に操作でき、オープンリール方式に比べて格段に使いやすい。子どもやお年寄り、機械操作に不慣れな人でも楽しめ、小型化も実現しやすくなる。
 実は、ソニーも1957年に、リールを2段重ねにしてテープをマガジン状に収納した「ベビーコーダー」を発売していた。他社に先駆けてテープのカセット化、レコーダーの小型・軽量化を行ったが、普及するまでには至らなかった。
 大賀は、「『カセット』の世界標準をつくり、もっと手軽に使えるテープレコーダーを普及させたい」との思いを日増しに高めていった。しかし、ソニーは日本のテープレコーダーのトップメーカーという自負はあったものの、1社の力では世界標準規格化は難しい、どこかと協力して推進しなければ実現しないと思っていた。

 そんな1963年9月のある日、ベルリンで開かれたショーの会場で、ドイツのグルンディッヒ社が、大賀に「DCインターナショナル」というカセットを一緒に規格化しようと働きかけてきた。ドイツのメーカー3社で考案したものだ。大賀がどうしたものかと迷っていると、今度はオランダのフィリップス社の極東部長(後の社長)のデッカー氏が来日して、「コンパクトカセット」と名付けたものを見せて、一緒にやりましょうと働きかけてきた。すでにコンパクトカセットは発売されていた。見比べてみると、どちらも甲乙つけがたい。大賀が最終的に選んだのは……DCインターナショナルよりも少し小型のコンパクトカセットだった。

 両社契約の段に至り、問題が持ち上がった。ロイヤリティー(特許使用料)である。最初、フィリップスは日本中の各社に1個につき25円という金額を提示してきたが、大賀は首を縦に振らなかった。すると数日後、軟化したフィリップスは「6円に下げるから契約しよう。各社はこの額でサインをし始めた」とソニーに働きかけてきた。しかし大賀は納得せず、「無料にしないならグルンディッヒと契約する」とフィリップスに告げた。フィリップスはさらに折れ、結局ソニーには無料ということになった。しかし、独占禁止法の問題、メーカー間の信頼の問題を考えるとソニー1社というわけにいかない。1965年、フィリップスは、互換性を厳守することを条件に、世界中のメーカーを対象に基本特許の無償公開に踏み切った。

 各国で、無償特許公開されたコンパクトカセットの普及が始まった。ソニーをはじめ日本の各メーカーは、1966年頃からテープ、テープレコーダーの製造設備を整え、拡大する需要に対応した。ソニーのコンパクトカセットレコーダー第1号機は、1966年発売の「TC-100」(マガジンマチック100)。重さはわずか1.75キロ。オープンリール式の最軽量機に比べ、重さも体積も半分以下となった。

 当初、カセット式テープレコーダーの音質はオープンリール式に及ばず、学習用などの一般録音機として使われていたが、技術の向上とともに、音楽の録音・再生、さらにハイファイサウンドが楽しめるようになっていった。その後、ラジオカセットなどの複合商品も登場し、コンパクトカセットを使った音楽の楽しみ方はますます広がっていった。
 まだオープンリールの時代であった1965年には、日本の磁気テープ産業は約35億円で、輸出もほとんどなかった。それが、コンパクトカセットが誕生し、さらに音楽にも使用され始めた1969年には100億円を突破、1981年にはオーディオテープだけで約1300億円の産業となり、輸出額も660億円となっていた。

 コンパクトカセットは、フィリップスや大賀の期待どおり世界標準規格として不動の地位を築いていった。フィリップスにとって、ソニーの大賀はコンパクトカセットの世界普及を進めた頼もしいパートナーであったと同時に、大きな収入源となるはずだったロイヤリティーをフイにした手強い人物でもあった。
 コンパクトカセットが主流となったテープオーディオの世界。70年代も終わろうとする頃、ここにさらに普及の拍車をかける新風が吹き込まれるのである。

第2話 歩きながらステレオが聴ける


  • 「プレスマン」を改造して、大きなヘッドホンをつけた試作機 
 ステレオタイプのテープレコーダーは、家庭で、自動車内で広く親しまれていた。しかし、手軽に持って歩ける小型・軽量のものといえば、まだ内蔵スピーカーやイヤホンを使うモノラルタイプに限られていた。

 1978年5月には、ソニーのテープレコーダーの一つの潮流となっていたポータブルタイプの肩掛け型録音機「デンスケ」シリーズに、教科書サイズの小型ステレオ録音機「TC-D5」が登場した。生録(マイクを使ってコンサートや鳥の声など、生の音を録音すること)マニアの間で人気を集めたが、携帯用としてはまだ重く、値段も10万円前後と高かった。

 井深(当時名誉会長)もこのTC-D5を愛用し、海外出張の時は、機内でヘッドホンを使ってステレオ音楽を聴くのを好んだ。しかし、やはり重くてかなわないと嘆いていた。
 ある日、アメリカへの出張を控えた井深は、大賀(当時副社長)に「また出張なんだが、『プレスマン』に、再生だけでいいからステレオ回路を入れたのを作ってくれんかな」と持ちかけた。ソニーは、手のひらに乗るくらいの小型モノラルタイプのテープレコーダー「プレスマン」を、1978年に発売していた。大賀は、すぐにテープレコーダー事業部長の大曽根幸三(おおそね こうぞう)に電話をして、井深の希望を伝えた。

 大曽根は二つ返事で承知して、部下にプレスマンから録音機能を取り去り、ステレオ再生が可能なように改造させた。有り合わせのヘッドホンを付けて、数人の技術者たちと再生音を聴いてみたところ、なかなか良い音がするではないか。「大きなヘッドホンを付けた小さなプレスマン」——妙な代物ではあった。大曽根の部下たちがさらにここをこうしたら、ああしたらと格闘していると、その仕事場にふらっと井深が現れた。10月頃のことである。井深は、「大賀くんに頼んでおいたけれど、連中やってくれているかな」と、ちょっと立ち寄ってみたのだ。昔から、井深は社内でどんな研究開発が進んでいるのかを知ろうとして、いろいろな職場にふらりと現れるのが常だった。

 例の改造版プレスマンを手に取り、言われるままにヘッドホンを付けると、「ほー、小さいくせに良い音が出るじゃないか。そうだよ、本当に良い音を聴くには無駄なく音を再現するヘッドホンがいいんだよなあ」と嬉しそうに言った。1952年にアメリカのオーディオフェア会場で、初めて「バイノーラル録音(人間の両耳間隔にマイクを離して設置して、音を立体録音する方式)」をヘッドホンで聴いた時に覚えた感動が、井深の中に蘇っていた。

 大曽根たちは、このプレスマンの改造品を井深のアメリカ出張に間に合うように仕上げた。しかし、急ごしらえだったため、電源は小型の特殊電池となってしまった。東京・秋葉原中の電気屋を走り回って調達した電池2個と、クラシック音楽のミュージックテープも何本か併せて渡した。井深を送り出してほっとした束の間、大賀に「聴いている途中で電池がなくなってしまった。こちらで探したけれど見つからなかったよ」という井深の電話が入り、一同がっかりしてしまった。

 ハプニングはあったが、井深はすっかり気に入っていた。井深は、大きなヘッドホンを付けたまま盛田(当時会長)の部屋へ持って行くと、「これ聴いてみてくれんかね。歩きながら聴けるステレオのカセットプレーヤーがあったらいいと思うんだが」。盛田は借り受けて、週末に自宅で試してみた。何と、盛田も気に入ってしまった。「井深さんの言うとおり、確かにスピーカーで聴くのとは違った良さがある。しかも持ち運びができて、自分一人だけで聴ける。これはなかなか面白い。これは、ひょっとするとひょっとするぞ」。盛田の独特なビジネスの勘が働いた。

第3話 夏休みが来る前に

 1979年2月、盛田は本社の会議室に関係者を招集した。事業部から電気、メカ設計のエンジニア、企画担当者、それに、宣伝、デザイン担当者など若手社員が中心だった。何事だろうと、皆緊張気味だった。

 例の改造版プレスマンを手にした盛田の第一声に皆驚いた。「この製品は、1日中音楽を楽しんでいたい若者の願いを満たすものだ。音楽を外へ持って出られるんだよ。録音機能はいらない。ヘッドホン付き再生専用機として商品化すれば売れるはずだ」。そして、盛田はこう続けたのである。「若者、つまり学生がターゲットである以上、夏休み前の発売で、価格はプレスマンと同じくらい、4万円を切るつもりでいこうじゃないか」

 当時のソニーでは、売り上げの締めの関係上、新製品の発売は21日というのが常識だった。夏休み前となれば発売日は6月21日、正味4ヵ月で店頭に出すということだ。そのためには、製品を量産する体制を整え、販売側の受け入れ体制も整っていなければならない。

 当然、ほとんどの出席者は異口同音に難色を示した。しかし反対はしたものの、何だか「使ってみたい製品だなー」という思いが集まった全員の心に芽生えていた。確かに、学生が夏休みに入る前に発売するのがベストのタイミングである。「よし、困難だが不可能ではない。やってみよう」と、話はまとまったのである。

 関係者の間で、再度価格の検討が行われた。「作るのに、いくらかかるか」ではなく、営業部隊に、「こういう製品はいくらくらいだったら買うだろうか」という観点で検討してもらった。するとやはり、「実売価格で3万円を切るくらいなら売れるだろう」という答えだった。それなら、無理を承知で3万5000円くらいでやってみようかと、話がまとまりかけた時に、盛田からひと言あった。「今年はソニーの創立33周年だ。価格も3万3000円でいこう」

 盛田のひと言で話はまとまり、皆夏休み前の発売に向けて走り出した。

第4話 「一緒にやりなさい」


  • ヘッドホン H・AIR「MDR-3」
 盛田は新しい商売の種に夢中である。面白そうな、新しい技術の芽を見つけて、「もっと、やれ、やれ」とけしかけるのは井深が得意とするところだが、商品化に結び付けたアイデアを出すのは盛田であった。井深と盛田の役割分担、バトンタッチのタイミングは創業以来絶妙だ。「これはものになりますよ。若い人たちは、いつでもどこでも良い音楽が聴きたい。もう音楽は、オーディオ装置の前で聴かなくてよくなるんですから。でも、本体より大きいヘッドホンが付いていてはスマートでない。何とかならないものですかね」と言う盛田の言葉に、井深がふと思い出したように言った。「そういえば、2、3ヵ月前の研究開発報告会で、確かオープンエアータイプの軽量ヘッドホンを開発しているって言っていたよ。あれがどうなっているか確かめてみたらどうかな」

 発表元の技術研究所をあたってみると、何という運命の巡り合わせか、超軽量・小型ヘッドホンとして開発された「H・AIR(ヘアー)」がほぼ形になっているという。これまでのヘッドホンが300〜400gという重さに対して、H・AIRはたったの50gだという。耳に当てる部分のドライバーユニットの直径も23mmで、これまでの楕円形の密閉型ヘッドホンは、直径56mmや58mmが普通だったことを考えれば、まるでミニチュアのようなヘッドホンである。開発プロジェクトの合言葉「ゼロフィット」のとおり、まさに装着を感じさせないヘッドホンである。しかも、そこから出てくるステレオサウンドは素晴らしい。「一緒にやりなさい」。こうして互いに相手の存在を知らず別々に育っていた2つの技術の芽が、井深、盛田という仲人を得て出会い、一緒に歩み出すことになった。1979年3月のことである。

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