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第15章 原点は設立趣意書

第1話 原点は設立趣意書


  • 1960年のソニーの求人広告
 ソニーの人事管理の出発点は、ソニーの前身である東京通信工業が設立される時に、井深が書いた「設立趣意書」にある。

「社員が仕事をすることに喜びを感じるような、楽しくて仕方がないような活気ある職場づくり」——これは、会社が大きくなっても、時代が変わっても、変わることのない原点だった。人を管理するための制度としてではなく、「明るくオープンで働きやすい会社のカルチャーづくりをしよう」という姿勢で、人事施策も一つひとつ積み重ねられていった。

 1966年5月。井深(当時社長)や盛田(当時副社長)に直結し、成田光三(なりた みつぞう。当時常務)を室長とする人事開発室が新設された。社員の適材適所と仕事の正しい評価を目指して、トップ自らも積極的な努力を傾けようという姿勢の表れだ。

 井深は、同部新設にあたり、社員にこう呼びかけた。
 「部長、課長、あるいは人事開発室が皆さん方を引っ張り上げるのではなく、一人ひとりが自分でエンジンをかけて前進するのです。会社にできることは、自らを啓発し、成長したいという強い意志がある人たちに道しるべを与え、障害物があれば取り除き、能力と適性に応じて仕事を決めていくことだけです。人事開発室は、単なる触媒に過ぎません」
 人事開発室がさっそく実行に移した施策が「社内募集制度」だ。名前のとおり、社内からの人材の「公募」だ。各部署、あるいは新設のプロジェクトチームが、社内報に「こういう人を求めます」という募集広告を出す。「やりたい」と意欲を感じた人は、所属する部署の上司に報告せずに、人事開発室に直接申し込む。そして、募集元と面接をし、募集元の求める条件に合えば移ってよいというものである。

 そもそも、井深や盛田には、「やりたい人、やれる人がその仕事をやる」「自分で自分の能力を発見して、適所を見いだしていける人が、本当に実力を発揮し成長していく」という考えが強く、創立以来、能力主義に基づいた人材開発に力を注いできた。しかし、会社の規模は拡大し、当時、社員は6千人を超えていた。組織が増え、異なる組織ごとの事情によって、人の異動もそう簡単ではなくなってくる。そこで、「向上心と意欲に支えられた能力を持った人に対して、会社が常にチャンスを提供して、制度として支えよう」という姿勢を、社内募集制度の導入によってさらにはっきり示したのである。それまでも、社外からは中間採用という形で、必要に応じて要員募集を行ってきていたが、社内募集制度は、他の企業を見ても、前例のない試みだった。

 最初の社内募集は、たくさんの申し込み者の中から、意欲と向上心が認められた2名がパスした。当初、人を出す部署側の上司を説得するのに苦労もあったが、社内募集制度は、最近では年間200人以上の異動を実現するソニーのユニークな人事施策として定着した。

 こうしたやる気の「きっかけ」を与える人事施策はできても、後は本人の努力次第。教室のような所に集めて教育するのではなく、「実際に仕事をやり遂げていく過程の繰り返しで、人間の能力は高まる」という考えの下に、少々乱暴でも実際に仕事をやらせてみる。多少の重荷のある仕事を、一生懸命頑張ってやり遂げるプロセスを経て人間は成長する。いわゆるOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)と呼ばれるものが、ソニーでは新入社員に対しても、異動者に対しても一貫して行われてきた。

 こうしたポリシーは、井深、盛田だけでなく、橋本綱夫(はしもと つなお)ら歴代の人事担当者たちに受け継がれ、定着している。硬直、固定した組織論はなく、個人が、共通の目標・目的を持って活き活きと楽しく働ける職場であってほしいという願いなのだ。

 また、忘れてはいけないのは、「会社を大切に、人を大切にしよう」という信念を持って、東京通信工業時代から長年にわたって、雇用を含めた会社の運営に尽力してきた樋口晃(ひぐち あきら)の存在だ。勤労部長を務めた60年代はもちろん、厚木、仙台、一宮、稲沢の各工場長などを務めた70年代も、現場を自らの足で歩き、従業員の声に細やかに耳を傾け、働きやすい職場づくりに務めた。また、ソニー健康保険組合が1958年に発足してから、40年以上理事長を務め続けているほか、財団法人ソニー教育振興財団(1972年設立)、学校法人ソニー学園(1964年設立)の運営も現在に至るまで支え続けた。今も昔も「『ヒト』のことなら樋口さんに相談してみよう」と、後進たちに長く頼りにされる存在なのである。

第2話 こだわらない


  • 1989年CBS・ソニーが学校名不問の採用試験で使用した「梅干しパズル」
 ところで、ソニーは、会社の歴史の浅さ、無名さという事情から、設立当初より外部からどんどん良い人、やる気のある人を引っ張り、戦力にして成長を遂げてきた。その結果として、中間採用の人が働きやすく、活躍できるカルチャーの土台ができ上がった。必要であれば、どんどん「要員募集」を行い、入社後も、こだわり、ハンディなどがないどころか、その日からすぐに仕事ができ活躍してもらえるということで、かえって重宝されたのである。
 定期的に新卒の新入社員を採用し始めてからも、このカルチャーは、いっそう大切にされていった。

 1988年、「経験者定期採用制度」を導入し、新卒重視の風潮に一石を投ずるものとして社会に受け止められた。「純血でなく、異質の血を入れることで会社の体質を強くし、ソニーという会社のカルチャーを進化させていこう。組織は『石垣』のようでなくてはいけない」と井深は言う。「ソニーという会社自体も、昨日と同じソニーではなく、少しずつ変わっていかなければいけない。ヨソから来た人の持つ知識・経験を取り入れていけば、ソニーも進歩、進化していく」。70年代後半より、ソニーの人事制度を手がけてきた橋本はこう言い続けた。

 そして、海外の人事政策も同じである。他の日本企業に先駆けて、早くも60年代から海外の現地法人の経営トップに外国人を採用し始め、1989年には、本社に外国人役員も誕生した。現在では、特に現地化の進んだ欧米各国の現地法人の販売会社のトップはほとんど現地人である。国籍にかかわらず、チャンスは与えられ、そして正当に評価される。

 1991年には、応募用紙に学校名を記入させない新卒採用制度「オープンエントリー制度」がソニーに導入された。(第1期生1992年4月入社)。学生の出身校もいっさいこだわらないというわけだ。
 実質的には、1966年に盛田が「学歴無用論」を唱えて以来、出身校にこだわらない風潮は社内に定着し、すべての学生に門戸を開放してきた。人間重視で、個性豊かな人材を採用しようという表明であり、それを実行してきたのである。もちろん、社内には学閥的なものなどいっさい存在しない。

 実は、少し前の1989年、関連のレコード会社であるCBS・ソニーグループ(現ソニー・ミュージックエンタテインメントグループ)は、いち早く学校名不問の採用に踏み切った。さらにその後、中教審(中央教育審議会)の答申で「加熱した受験戦争の弊害をなくすためには、企業も有名大学重視の採用を改めるべき」との提言もされ、企業の社会的な責任を考えても、機は熟していた。
 しかし、学生も書類に一切学校名を書かず、採用担当者にも知らされないという、正真正銘の学歴不問の採用制度を実施するか否かには、社内でもひと論争があった。当時はバブル経済の最中で、どの部署も数多くの人材を欲しがっていた。「もし、失敗したら……」と採用担当者たちは尻込みする。会社の方針として「今年は何名採用する」と決めた時、実際に採用できないと、担当者は責任を問われるのが日本の会社では一般的だ。

 しかし、「採用できなかったらそれでもよい。また、経験者採用で採ればいいじゃないか。やってみなさい」と橋本は彼らの背中を押した。そう思い切って言えたのも、それまでに経験者採用の積極的展開により、経験者採用で良い人材を得られるという信念があったからだ。
 思い切ってやってみると、バラエティーに富んだ優秀な人材を採用でき、世間にも「採用革命」と一石を投じ、その関連記事がマスコミにも次々と取り上げられた。

 「時代や状況の変化に合わせながら、きちっと先取りして制度を変えていくことも必要だ」と、技術開発と同じく、今までの既成概念に捉われず、新しいことをやっていこうという心意気が、脈々と人事政策の中にも生きている。

第3話 「英語でタンカのきれる日本人求む」


  • 海外貿易要員を募集するソニーの求人新聞広告
 1960年頃、「英語でタンカのきれる日本人を求む」という、やや変わったキャッチコピーの求人広告が朝日新聞に掲載された。よく見ると、ソニーの「海外貿易要員」の募集だ。新鮮な広告にひかれたのだろうか、多数の応募者がソニーを訪れた。

 1958年に「東京通信工業」から「ソニー」へと社名を変え、世界のブランドとして羽ばたくべく、まさに本格的な海外展開を推し進めようとしていた。トランジスタラジオとテープレコーダーの海外販売体制強化が急務である。「すぐにでも英語を使いこなして、実務のできる人材が欲しい」。新入社員を、落ちついてのんびりと教育している余裕はないというわけだ。

 当時でいう貿易商社(現在の総合商社)などから採用された「海外貿易要員」には、第1期生に卯木肇(うのき はじめ)、郡山史郎(こおりやま しろう)たちが、第2期生に石原昭信(いしはら あきのぶ)たちが、そして第3期生には田宮謙次(たみや けんじ)たちがいた。

 「山の上のバラック」と社員に軽口をたたかれた建物にある、雑然とした「外国部」が彼らの職場となった。部長の鈴木正吉(すずき まさよし)をはじめ、小松万豊(こまつ まんぽ)、大河内祐(おおこうち ひろし)ら数名の先住メンバーに熱烈な歓迎を受けると、初出社の数時間後には処理すべき書類、伝票類が目の前に山積みにされた。当時の「外国部」はいくつかの係に分かれてはいたが、アメリカも、ヨーロッパも、アジアやアフリカなどの地域も1ヵ所で扱っていた。

 この外国部の中から、そのうち、鈴木、大河内がアメリカへ、小松がヨーロッパへそれぞれ赴き、入念な市場調査の上で最初の拠点づくりの準備を始めた。

  • SOSA設立時のスタッフ全員
    左から郡山、小松、スイス人女性秘書、鈴木
 まず1960年2月、アメリカのニューヨークに現地法人の販売会社 Sony Corporation of America(通称ソニー・アメリカ、SONAM=ソナム)が設立された。
 ヨーロッパには、1959年8月にスイスのチューリッヒに駐在員事務所が開かれ、翌年12月にそれを拡充して現地法人化した販売会社Sony Overseas S.A..(通称SOSA=ソーサ)が設立された。小松支配人の下、郡山、鈴木令二(すずき れいじ)たちわずか3名の日本人と、スイス人女性の秘書1名によるスタートだった。

 こうして拠点のつくられた欧米と、外国部の担当者が、毎日のテレックス交信によって本社側の生産や製品計画を調整していく。
 一方、アフリカや東南アジアなどは、現地の代理店を経由して外国部が直接商売を行っていた。これらの代理店から毎日大量に届く商品の問い合わせ、クレームレターが処理しきれずに机の上に積み上がっていた。

 ここに配属された「貿易要員」は、まずソニー製品の型番をカタログで調べることから始め、とにかくその「山」を整理して片づけていく。返事は、8割は手紙、急ぎのみ電報。当時は、ファクシミリなどはないし、国際電話も料金が高くてそう簡単に使えない。商品の注文が確定したら、次は見よう見まねで注文書を作成して工場へ送る。そして製品が無事に出荷されるまで確認する——という具合に、1人でいくつもの代理店の面倒をいきなり任されるのだから、もうオン・ザ・ジョブ・トレーニングどころの騒ぎではない。皆がそれぞれのやり方で仕事をこなすしかなかった。

 1960年当初のソニーの海外事業所は、ソニー・アメリカとソーサの他には、香港事務所(1958年設立、1962年よりソニー・香港)、アイルランド・シャノンの生産工場(1959年設立)、この二つがすべてだった。欧米以外の「一般地域」と呼ばれるエリアには、まだ駐在員事務所などない。外国部のメンバーが、代わる代わる3ヵ月くらいぐるぐる回って帰って来る「移動出張」という形で、頻繁に往来を繰り返し、代理店開拓や市場調査を行っていた。
 何しろ、海外渡航者が羽田空港で、知人たちから「バンザイ、バンザイ」と万歳三唱で見送られるようなご時世である。1960年に社内情報伝達の手段として創刊された『週報』(現ソニータイムズ)の「海外往来」欄には、出国・帰国者名が一人ずつ掲載された。

第4話 トランジスタラジオを鞄に詰めて


  • ソニー製ラジオを手にするアフリカの人々
 父親が勝手に応募したのがそもそもの始まりで、三井系の貿易商社ゼネラル物産を辞めて、ソニーの「海外貿易要員第1期生」として1959年に入社した卯木は、入社数ヵ月ですぐアフリカ出張を命ぜられた。外国部に入り、誰も手を付けようとしないアフリカからの手紙の封を切ったのが、運の尽きだった。

 「すぐ行け、アフリカがお前を待っている」と盛田がせかす。しかし、まだ植民地時代でイギリスなどに押さえられていたアフリカのこと、イギリス大使館でビザをもらおうにも本国照会やら何やらで普通なら3ヵ月かかるという。「冗談じゃない、そんなに待っていられるか」とじりじりしていると、独立したばかりのエジプトの大使館が少し前に東京に開かれたというではないか。行ってみると、すんなりビザをもらえた。「取りあえず行けば何とかなるだろう」と、たった 1枚のビザとたくさんのトランジスタラジオのサンプルを鞄に詰めて、卯木はエジプトへ飛んだ。
 カイロに入ってからスーダン、そしてエチオピア、東アフリカのケニア、ウガンダ、タンザニア、ローデシア(現ジンバブエ)、南アフリカを経て最後は西アフリカへ。

 卯木は、アフリカ大陸を半年間ほど歩きに歩いた。各国のビザはどうしたのか、といえば、エジプトに行って「次はスーダンに行きたいのだが」と5ポンド紙幣をパスポートに挟んで大使館員に目配せしたら、ポンッと判子を押してくれた。同じように、隣の国へ行って5ポンド払うという作戦で、ずっとアフリカ中を回ってしまったのである。「案ずるより生むが易し」。アフリカには日本企業はおろか日本人がほとんど見当たらない時代のことである。

 卯木の仕事は、代理店契約をする店の候補者を選んでいくことである。日本に照会してきた中から、あらかじめ「いけるかな」と目星をつけておいた店の経営・財務状況を、商工会議所や銀行で調べ直し、「店構えも悪くない、信用できる」と確認すると、電話を1本入れて「やあ、来たよ」と姿を現す。そうして店主と話をつけていくのである。

 卯木は毎日、自分の行った店の現状、ソニーの代理店としてのビジネスの可能性を、自らの見解と併せて手紙で東京に送り続けた。返事は来ない。電気のないアフリカでは、小さな乾電池で動くトランジスタラジオは見せれば大人気で、「明日からでも」と取引開始を望む店は多かった。「早く許可が欲しい」。切羽詰まって今度は電話や電報を使うが、通信状態が悪くて通じない。

 結局、取引開始の「許可」を求めた手紙は、実質上、「事後報告」の手紙となっていった。まだ30歳の若さだった。
 一方、国内を走り回っていた「海外貿易要員3期生」の田宮も、外国部中南米係に戻ってしばらく経つと、南米のペルー駐在を命じられた。

 1963年のことである。ペルーのリマと、中近東の要衝レバノンのベイルートの二つが候補に挙がっていたのだが、田宮は運悪く英語の通じないペルー駐在を命じられてしまった。スペイン語などチンプンカンプンの田宮は、夜、語学学校へ通いながら、中南米での生活を始めた。ペルー、ベネズエラ、ブラジルにいた5年の間、一度も帰国せず、日本から訪れる者も1けたの人数だった。やがて、パナマの駐在員事務所(1970年よりソニー・パナマ)が中南米全部を見ることになったので、任務を終えた田宮は久し振りに日本へ帰ってきた。1967年10月だった。
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