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第16章 ソニー・アメリカの兄弟たち

第1話 ソニー・アメリカの兄弟たち


  • 1968年ソニーハワイ開所式にて
    (左から2人目が盛田)
 田宮が中南米から帰国して半年後。盛田から次なる使命が与えられた。
 「ハワイにソニー・アメリカから切り離した、本社100%出資の現地子会社を設立しろ」

 当時、ハワイはソニー・アメリカのロサンゼルス支店の管轄の下、代理店経由で商売を行っていた。資本金5万ドルを持って、田宮がたった1人でホノルル空港に降り立ったのは1968年5月。約1ヵ月の間でオフィス、倉庫を探し、大急ぎで最低限の従業員を雇って会社を設立し、日本人2人を含む総勢6人でスタートした。ソニー・アメリカに、小さな兄弟 ソニー・ハワイ(Sony Hawaii Inc.)が誕生した。

 しかし5万ドルの資金はすぐに底をつき、「田宮商店」は火の車。田宮は最初の2〜3ヵ月間の自分の給料を、電気代や他の社員の給料に充てたほど、資金繰りが苦しかった。日本から商品もまだ到着しないため、出ていくお金はあっても入ってくるお金はない。「明日はどうしよう.....」。お金のことを考えて眠れぬ夜、バルコニーで風に吹かれて過ごした。

 8月、待ちわびた商品がやっと届いた。何十軒かあったディーラーに商品を渡し始めると、ようやくお金が回り出した。この頃の商品といえば、トランジスタラジオのみ。テープレコーダーはスーパースコープ社が全米とハワイの販売代理権を持っていて、販売ができない。まだ、カラーテレビもない。ラジオとステレオ2台ずつの記念すべき初オーダーは、ライトバンに積んで社員4人でお客さまの所へ届けた。

 ソニー・ハワイができた翌年10月には、カナダのトロントに、もう一つの兄弟が生まれた。VTRをはじめとする業務用機器を扱うソニー・カナダ(Sony of Canada Ltd.)である。
 社長は稲垣 茂(いながき しげる)、副社長は角田浩一(つのだ こういち)。やがて、このソニー・カナダは、70年代半ばに、盛田が弁護士のエドワード・ロッシーニ氏とともに粘り強く交渉した結果、古くからソニーの民生用機器を扱ってきた代理店ジェンディス社との合弁で、新しいソニー・カナダ(社長:A・コーエン)として生まれ変わった。
 そして1995年には、盛田の夢であったソニーの100%出資となる。

 さて、ソニー・ハワイやソニー・カナダが設立された頃、大西洋を隔てて、ヨーロッパでも販売会社設立の動きが生まれていた。
 60年代は、1960年12月にスイスのツーグに設立されたソーサ(Sony Overseas S.A.)が、スカンジナビア半島からギリシャ、トルコまでヨーロッパ全域の販売代理店を統括し、輸出に伴う金融・外国為替業務を行っていた。

 ソニー本社から赴任していた第1世代外国部員の小松万豊(こまつ まんぽ)、郡山史郎(こおりやま しろう)、鈴木玲二(すずき れいじ)の3人がソーサのビジネスの立ち上げを行い、出井伸之(いでい のぶゆき)、並木政和(なみき まさかず)、水嶋康雅(みずしま やすまさ)、中村末広(なかむら すえひろ)たち第2世代は、駐在員として英・独・仏に散らばった。

 彼らの目標は、日本製品の「安かろう、悪かろう」というイメージを払拭し、ヨーロッパメーカーの製品よりも平均で1割、ドイツでは約2割値段が高いソニー製品を、「高くても購入するに値する」とお客さまに認めてもらうことであった。
 イギリス担当の並木、フランス担当の出井、ドイツ担当の水嶋。当時、このヨーロッパ駐在員3人は何かにつけて良きライバルであった。
 トランジスタラジオからはじまり、そしてトリニトロンカラーテレビと、互いに他の2人より1円でも多く売上げようと、商品の販売を任せていた輸入代理店の尻たたきをしていた。

 市場の拡大が予想されるヨーロッパ主要地域において、彼らの「会社づくりの競争」が始まった。輸入代理店との契約を打ち切り、小売店に直接卸すソニー自前の現地法人を、国ごとに設立しようというのである。自分たちの手でもっと商売をしたい、ブランドイメージを高めて定着させたい、サービスネットワークをつくりたいなど、夢はますますふくらんでいった。
 「販売は一種のコミュニケーションなんだよ。ソニーの製品がどれだけ便利なものであるかということを消費者に分かってもらうためには、独自の販売ルートが必要なんだ」。盛田は国内同様、限りなく消費者に近づきたいと願って止まなかった。

第2話 ヨーロッパの3つの会社


  • 1970年頃のソニー・UKのセールスオフィス
 1967年、ヨーロッパにはヨーロッパ六ヵ国の地域統合であるEC(欧州共同体)が誕生した。ECはこの後、拡大の一途をたどっていく。
 30歳にも満たない若い駐在員3人に、「会社づくり」という大事業が任された。社内には「もう少し、経験を積んだ人材を」という声もあったが、年齢に捉われず、見込んだ人なら、若くても大きな目標を与えて、やらせてみるのがソニーの良いところだ。
 創造的精神に富んだ3人は、それぞれ異なる習慣、法律、ルールに直面しながら少しずつ城を築いていった。日本の本社外国部で指揮を執ったのは、四元徹郎(よつもと てつろう)である。

 1968年5月に一番乗りの並木が、ロンドン代理店の老舗デベナム社と手を切り、ソニー・UK(Sony <U.K.>Ltd.)を設立した。
 これまでデベナム社がソニーに割り当てていたセールスマンはたったの3人、これで600店の卸業者をカバーしていたのだ。「これではわれわれの大きな飛躍は望めない」と並木はびっくりした。幸い、格式あるデベナム社とは紳士的に契約を打ち切ることができた。そればかりか、デベナム社の社長からはソニー・UK設立にあたり餞別までもらった。厚かましいのを承知で頼んでみると、ソニー製品を担当していた数人の従業員をはじめ、並木用の大きな机、配送用のトラック2台を格安で譲ってくれたばかりか、新オフィスを探してくれた上、何とオフィス賃借契約の保証人にもなってくれたのだ。日本政府の外貨規制で懐が寂しかった折、大助かりだった。

 その心に応えるかのように、ソニー・UKはビジネスを始めると、最初の月の売り上げが前月の2倍になった。6ヵ月経つと前年同期比で3倍となった。

 1970年6月、続いて水嶋がグルンディッヒ、ノルドメンデ、テレフンケンなど、欧州エレクトロニクス界の巨人たちがひしめく西ドイツのケルンに、ソニー・ドイツ(Sony G.m.b.H.)を設立した。自国のエレクトロニクス製品を世界一と自負する西ドイツで、まだ名もないソニーが製品を売ろうというのは大変な試みだった。
 当面、二十数名の現地スタッフと5名の日本人で出発だ。代理店時代は期待どおりいかなかった売り上げも、ソニー・ドイツ設立後、水嶋の高級品イメージを貫く販売方針の下で急激に伸びを見せた。その年の暮れ、水嶋は、社用車としてメルセデス・ベンツを思い切って買う贅沢ができるようになっていた。

第3話 ブランドづくり


  • トランシャン社の建物の前に立つ出井
    (うしろにあるのは、日の丸をデザインしたソニーの宣伝用車両)
 いちばん大変だったのは、出井の担当したフランスだ。彼がフランスに販売会社を設立する準備を始めたのは1971年。当時フランスはまるで「鎖国状態」にあり、日本からの直接投資がほとんど許されない時代である。エリーゼ宮にある大蔵省に足を運んで、「『ソニー・フランス』を設立したい」と何度も訴えた。自国産業保護の壁に加えて、ソニーの販売代理店トランシャン社の店主と、当時の大蔵大臣ジスカールディスタンが大の仲良しだった。「ソニー100%出資の子会社をつくるために、契約を打ち切らせてください」という要求に、簡単には了承してくれなかった。

 出井はじっくりと時間をかけ、弁護士を雇って交渉し食い下がった後に、スエズ銀行と3年契約の、いわゆる「偽装ジョイントベンチャー」を行うところまでこぎ着けた。

 1973年2月、社長に前フランス電子工業会会長のジャック・ドント氏、副社長にソニーの大賀康彦(おおが やすひこ)が就任して、ソニー・フランス(Sony France S.A.)が設立された。出井をうんざりさせた2年だったが、一見遠回りをしたようなこの形態をとったからこそ、ソニーは後に残りの株を買い取ることができた。

 1971年9月には盛田の願いどおり、四六時中人通りの絶えない、パリ目抜き通りのシャンゼリゼ通りにショールームも開設された。出井は徐々に「ブランド」の本質に気付いていく。「ブランド」とは、「手に入りにくいものへの憧れ」である。そしてヨーロッパ、特にフランスでは「ブランド」は購買欲をかき立てる力を持つ。だから「ブランドイメージをいかに高めるか」が、知名度がまだまだ低いソニーには重要だった。シャンゼリゼのショールームは、訪れるフランス人に対してソニーのイメージアップを図るのに確実に一役買った。

 こうして、駐在員が細々と代理店の片隅に間借りして事務所としていた時代は終わり、より大きな飛躍を求めて「高価だが、高品質なソニー製品」を売り込む自前の拠点が、ヨーロッパで、アメリカで、誕生していった。 
 
 それぞれの生みの苦しみは大変なものだったが、大きな目標に対してリスクを冒しチャレンジができたこと、その中でそれぞれの国の文化・慣習・法律体系などを身をもって学んだことは、若い彼らにとってもソニーにとっても大きな財産となった。  また、販売会社設立に際して、各国ともに現地での「人探し」に苦労したが、「無名の小さな外資系の会社」というハンディが、かえってエネルギッシュな現地の若者たちを採用するきっかけとなり、重要でやりがいのある仕事を与えられた彼らもそれに応えて、実によく働いた。

第4話 国境を越えた資金調達


  • ニューヨーク証券市場へのソニーの上場を喜ぶ盛田(左)と吉井(右)
 さて、日本、そして世界の消費者に近づくべく、自らの販売網をつくり上げていくソニーにとって、「資金調達」は最重要課題であった。日本企業として初めてADR(アメリカ預託証券)を発行し、アメリカ資本市場でADRの発行によって資金を調達できるようになった。
 これは積極的な「外国資本調達」の試みの幕開け、資本の国際化ともいうべき第1歩であった(第1部第12章3話参照)。

 1961年、63年の2回にわたる計500万株のADR発行により、ソニーは約40億円の資金を得ていた。

 そして、1970年9月17日。全世界の取引株式時価総額の75%を占める世界最大の証券取引市場、ニューヨーク証券市場のハーク理事は、取引開始の 30分前、「コングラチュレーション(おめでとう)」という歓迎の言葉で、ソニーの盛田たちを1階取引所に迎えた。
 とうとうソニーが業績、財務内容などの厳しい審査を経て1305番目の上場会社として——外国企業としては30番目、もちろん日本企業としては初めて ——世界最大のニューヨーク証券市場上場を果たしたのである。ADR発行から10年、ソニーにとって待ちに待った悲願達成の日だった。

 取引開始の合図の鐘が場内に鳴り響く午前10時、盛田が慣例に従って個人名義でソニーADR100株(当時、1ADR株=2日本株)を買い取った。この買い注文がコンピューターへ送られると、場内の電光掲示板にソニーの略号である「SNE」とその始値が映し出された。
 「SNE15ドル8分の5」。盛田は買い注文を表したコンピューターのテープを手に、喜びをかみしめた。

 ニューヨーク上場の意味するものは何だったのだろうか。
 まず、「真の国際企業としての地位を象徴するもの」だった。厳しい上場基準をクリアした優良企業、日本の国家予算を上回るような年間売り上げを誇るゼネラルモーターズなどの超大型企業と、同じ土俵で取引される名誉が与えられたのだ。実際、ニューヨーク市場上場銘柄は、ヨーロッパ、カナダなどの取引所でほとんど無審査で上場される。
 その日は引きも切らない買い注文が続いた。終値は15ドル4分の1、1日の出来高(取引高)は12万300株で、何と1305企業中13番目。ソニー株式が、その後IBM、モービル石油、AT&Tに並び、取引所年次報告で発表されるアメリカの指標的銘柄になっていく未来を暗示するかのような、華々しいデビューだった。
 
 また、初日の記者会見の席上で、盛田は「今回の上場によって世界企業としての第一歩を踏み出した。ヨーロッパ市場にも上場して、ソニーを世界的基盤に立つ企業にしていきたい」と熱っぽく今後の抱負を述べたが、その言葉どおり、次々とヨーロッパなどの主要証券市場にも株式を上場していった。そして1977年までに世界10ヵ国18の主要取引所に上場され、ほとんど1日24時間、どこかの証券市場でソニー株の取引は行われている、という世界上場網が敷かれたのだ。こうしてソニーの国際化は、商品とともに、株式によっても達成されていった。

第5話 市場の近くに工場建設


  • サンディエゴ工場のくわ入れ式
    (中央でスコップを持っているのが岩間)
 1971年6月、世界初のトランジスタFMラジオ、トランジスタテレビ、トリニトロン・カラーテレビ、家庭用VTRなどの開発と、製造において、技術陣を陣頭指揮してきた岩間が渡米し、ソニー・アメリカ(ソナム)の社長に就任した。岩間の下でトリニトロン・カラーテレビが市場導入され、「高くてもソニーの製品を買いたい」と、アメリカ全土にソニーの知名度は高まっていった。

 3年間のアメリカ滞在中、岩間はあることで積極的に動き回っていた。工場用地の物色である。
 盛田が60年代から海外へ自前の販売会社の設立を進めながら、同時に考えていたのは「マーケットの近くに製品の供給源を持ちたい」ということだった。しかし、同時に「軽々しく実行に移してはいけない」と、様子を見ていた。それは、「まず販売システムを整え、市場を確保し、その市場に精通してからでなければ、海外に生産工場を持つのは間違いだ。市場の状況をよく知り、その中で身の処し方を習得し、お客さまへのアフターサービスを含め、会社の信用を確立するのが最優先である」と考えていたからだ。

 そしてアメリカでの売り上げがさらに上昇し、大型テレビもアメリカへ出荷するようになった1970年、盛田はついに機が熟したと判断したのである。
 「アメリカにカラーテレビの生産工場をつくろう」
 現地で、この計画の陣頭指揮を執ったのが岩間だった。そもそも、中身が大きく重いブラウン管でできているテレビを、高い船賃を払ってはるばる太平洋を越えて輸送するのは無駄だ。大きな市場の域内に生産拠点があれば、市場の動向に従って、生産の微調整やニーズに合ったデザイン考案もできる。

 また、この頃、日本から輸入されるカラーテレビに対して、ダンピング訴訟がアメリカ国内で持ち上がっていた。
 日本の輸出増加による、大幅な対日貿易赤字への腹立ちが芽生えつつあることに、盛田はいち早く気付き、「こうした感情的な議論がさらに高まり、日米関係をこじらせてしまうのは避けねばならない」と考えていた。そして、単なる輸出を行うだけでなく、「現地生産によってアメリカの産業に寄与し、相互発展の一助になれば」と強く考えたのだ。

 当時、アメリカの労働賃金は日本に比べてはるかに高く、RCA、ゼニス、アドミラルなどアメリカの会社でさえも、国外へ工場を移していた頃である。何しろ、円が1ドル=360円の時代だ。岩間のアメリカでの工場用地探しに同行し、準備を進めていたのは、神野正一(じんの まさかず)、小寺淳一(こでら じゅんいち)だ。
 彼らは、360円の為替相場をベースに設立コスト試算を役員会に出した。それは「数年は赤字覚悟」の悲観的な内容だった。ところが、数字の説明を気にせず、井深や盛田が「とにかくやらなきゃいかん」と早々に結論を出してしまった。「1ドル=360円はいつまでも続かない。長い目で見れば、この試みは必ず成功する」。
 盛田たちは、カリフォルニア州サンディエゴ工場設立にゴーサインを出したのである。そして、「直ちにソニー一宮(トリニトロンテレビ組立を行っている。所在地愛知県)へ行って最新の生産方式を勉強してこい」と命令されたので、小寺は驚いた。
 彼は、アメリカにおけるカラーテレビ工場の初代工場長に予定されていたのだ。
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