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第17章 サンディエゴ・ウェイ

第1話 サンディエゴ・ウェイ


  • サンディエゴ工場の前に立つ日米混成マネージャー
    (中央列の一番右側が小寺、一人おいて森本)
 盛田から使命を受けた翌日、小寺はトリニトロンカラーテレビを組み立てているソニー一宮(愛知県)へ勉強に向かった。その2日後、将来を予見するような事件が起こった。
 米ニクソン大統領が金本位制からの脱皮を宣言、さらに海外への援助金を削減し、全輸入品目に10%の輸入課徴金を課すと発表したのだ。「サンディエゴ工場建設計画は進めるのみ」と盛田は背中を押された気がした。

 1971年、小寺はサンディエゴ工場長として渡米、NCR、ヒューレット・パッカード(HP)、バロースの米国企業3社だけしか進出していない、当時は空き地だらけの工業団地ランチョーバーナードで、副工場長の森本昌義(もりもと まさよし)とともに、工場のオペレーションづくりに入った。

 まず、人である。アメリカでもソニーの知名度はかなり高くなっており、面接希望者はたくさん集まった。その中から、「テレビなどの製造、組み立て作業に経験のない人を雇おう」と、まず30人余りの女性を採用した。ほかのアメリカ企業での経験が、かえってこれからつくる工場の新しいやり方に適応しにくくするだろう、と考えたからだ。製造部長と人事部長にはアメリカ人を採用し、日米混成のマネジメント・チームをつくった。

 計画を始めた当初から、コスト高と同時に「ダンピング」が心配の種であった。つまり何をもってアメリカ製とみなされるか、いろいろな法律書を引っくり返して調べたが、謎を解いてくれる明確な規定がアメリカには存在しなかった。
 結局、「材料・工数(設計・製造などに費やす作業時間)を含めて付加価値の50%以上をアメリカで付ける」ことを目標に計画が立てられた。
「これなら、アメリカ製とみなされますね」と、確認を求めて米財務省にもかけ合ったが、ちょうど、ウォーターゲート事件の調査で多忙の折、一向にハッキリした答えがもらえない。「拒否はしていないだろう」と一方的に解釈し、進めていった。

 この計画でいくと、最終的にはテレビのシャーシ基板のマウントまで現地で行う、ということになる。まず、日本から持ち込まれた組み立て済みのシャーシとブラウン管を合わせる、初歩的な「アセンブルド(組み立て)・イン・USA」で出発することとなった。
 本社の外国部ソナム課と電話などで連携をとりながら、部品を日本からタイミングよく送ってもらい、カラーテレビが現地できちんと製造できるように準備する、いわゆるロジスティックスのインフラをつくっていく。何しろ、初めての経験だから何の資料もない。

 1972年8月3日、工場の完成・稼働の日を迎え、35名の従業員が見守る中、たった一つのラインにトリニトロンカラーテレビ「KV-1720」が乗った。
 やがて、3ヵ月余りで利益が出ると、第2段階の基板を持ち込んでシャーシのアセンブリーも始まった。
 ラインと従業員の数が増えると、製造上のトラブルも多くなり、従業員の教育、部品の品質維持にも苦労した。アメリカ人、しかも未経験の労働者には、「あ・うん」「以心伝心」の呼吸は一切通じない。小寺や森本たち幹部は、作業の中身や手順について一つひとつ細かい指導を行った。作業工程のミス・抜けを「誰かがカバーするだろう」という期待も一切なくして監視役を置いた。

 初の本格的な海外生産工場の試みは、最初が肝心だ。試行錯誤の中で、たよりとなったのは、岩間がもとより言い続けてきた「コストより品質に重きを」、そして「良い品質のためには高い従業員のモラルを」という精神だ。

 最初は賃金を職種別にしていた。しかし彼らは、給料がモラルに直接反映しがちで、腰を落ち着けて自分の仕事の精度を上げるよりも、給料の良い仕事に移りたがる。ただでさえ、素人ばかりで始めて修理率を低いレベルに抑えておくのは大変だ。
 そこで「もっと高い品質の製品をつくることができる技量を彼らが身に着けるには、どうしたらよいだろうか」と知恵を絞った末、給料においても独自の方式を編み出した。職能給に根づいたアメリカ人従業員の考え方を無視せず、かつ日本の年功序列の良さも活かした給料体系だ。
 つまり、同じ仕事についていても、就業年数により徐々に給料が上がっていく方針を導入したのだ。

 また、気軽に従業員たちが意見を言えるような環境づくりにも心をくだいた。働く環境が良く、居心地の良いサンディエゴ工場には、長い間勤める人が多かった。盛田たちもたびたびサンディエゴ工場を訪問して、ソニーの企業哲学などを、昼食をとりながら工場幹部から一般従業員にまで語って聞かせた。

 こうして、アメリカ方式でも日本方式でもない、独自の「ソニー・サンディエゴ方式」が育っていった。 1974年には、ブラウン管工場も隣接地に建てられ、カラーテレビ一貫生産体制が敷かれた。
 サンディエゴ工場のノウハウは、生産する製品は違うものの、ペンシルバニア州デラノのスピーカー工場(1974年稼働開始)、海外初の磁気テープ量産工場となったアラバマ州ドーサンのビデオ・カセットテープ工場(1977年稼働開始)、メキシコのヌエボ・ラレードのオーディオ・カセットテープ工場(1979年稼働開始)など、この後70年代に次々に生まれる工場運営のお手本となっていく。

第2話 チャールズ皇太子の誘い


  • 1974年12月ブリジェンド工場の開所式で従業員に声をかけるチャールズ皇太子(左側)と盛田(右端)
 サンディエゴのブラウン管工場が完成した年、ヨーロッパでも、一つのカラーテレビ工場が産声を上げ、歩き出していた。イギリスのウェールズに建てられたブリジェンド工場である。

 時はさかのぼり、1970年の万国博にチャールズ皇太子が来日した際、大使公邸で開かれたレセプションの席上で、盛田に言った言葉がある。「イギリスに工場を建てる予定はありますか。将来その計画を立てたなら、私の領地のウェールズのことを思い出してください」。
 盛田は、自ら外国企業の誘致に努めるこの言葉に、経済界へ関心を持ち国民の雇用拡大に協力するイギリス国家、つまり「イギリス王室」の健全な姿を感じ取った。

 もちろん、その言葉を聞く前から、イギリスへの工場建設の計画はあり、13年間の米国駐在の後にソニー・UKの社長となった大河内祐(おおこうち ひろし)たちによって立地条件、交通の便、環境などを考慮してあらゆる候補地が検討されていた。
 そして、ある日、大河内から「ウェールズが良いと思います。ロンドン、マンチェスター、ブリストルなどの大消費地に近いし、ハイウェイの建設も予定されています。サウサンプトン港への交通の便も申し分ありません」と盛田に連絡があった時は、その偶然にびっくりした。チャールズ皇太子の件は話していなかったからだ。

 結局、ウェールズのブリジェンドにカラーテレビ工場をつくることに決定し、本田睦友(ほんだ むつとも)、常田哲夫(ときた てつお。工場長に就任)たち17名が日本から派遣された。

 1974年6月10日に操業を開始、12月にはチャールズ皇太子を招待して正式な開所式が開かれた。英語とウェールズ語で書かれた大きなプレートの前で、盛田はこう挨拶した。
 「ソニーの理想は、わが社独自の工業技術と世界各国の人々の力を結集し、世界に貢献することであります。この工場で、地元の皆さんの協力を得て、厳しい市場に送り出すための高品質な製品をつくり出すのです」。

 やがて、このブリジェンドで生産されたカラーテレビの生産量の約半分は、ヨーロッパ大陸とアフリカへ輸出するようになった。それは、何と、イギリスのカラーテレビ輸出全体の約30%を占めていた。
 1980年、イギリスの輸出振興に貢献したということで、日系企業としては初めて「クイーンズ・アウォード」を贈られ、盛田とブリジェンド工場の従業員たちは喜びと満足感にあふれることとなる。

 1970年代以降、ブリジェンドに続き、スペインのバルセロナに、そして西独の電子機器メーカーのベガ社の株式取得によりシュツットガルトに、それぞれカラーテレビの生産工場が建てられた。

 フランスはどうだっただろうか。出井伸之は、販売会社づくりをしながら、輸入規制の強い国で確かな市民権を得るためには、どうしたらよいかを考えていた。彼は、輸入代理店から敵対視されているのを嫌というほど感じており、盛田にも何度となく進言した。
 「フランスのような輸入制限の厳しい国こそ、工場をつくってメイド・イン・フランスの製品を製造すれば、フランス政府はバックアップしてくれます。フランス市民として認めてもらえます」。この思いは、80年代に入ってから実行に移される。欧米で順調にオーディオ・テープ市場が拡大し、家庭用VTRのベータマックスの導入で、ビデオ・カセットテープの需要が確実に増大していくと、「磁気テープも、市場の近くの工場から安定した供給を図ろう」ということになった。

 1980年、フランス南部のバイヨンヌでオーディオ・カセットテープ工場、そして1984年、フランス南西部ダックス市郊外のポントンクスでビデオ・カセットテープ工場が、相次いで稼働を開始した。
 また、1986年には、アルザスのCDプレーヤー工場も稼働を開始した。ジスカールデスタン元大統領はこうしたソニーの現地生産の交渉に際し、門戸開放のための助力を惜しまなかった。

第3話 シャンパンとシャノン


  • シャノン工場のオフィス風景
 ところで、サンディエゴ工場の前にも、ソニーに海外生産工場運営の歴史があったのを知っている人は少ない。それは、数年後、撤退という結果に終わったからである。
 しかし、そこから学んだものは大きい。
「市場の近くで生産をする」。このポリシーに基づいたソニーの試みの歴史は、かなり古い。時は1950年代にさかのぼる。当時はまだ戦後15年、外貨規制など、何かと外国からの規制があった頃である。日本からのヨーロッパ、アメリカへの工業製品の輸出も台数規制があり、思うようにならなかった。

 1959年、まず香港に現地の法人と契約し、トランジスタラジオの組み立て工場をつくった。実はこれが海外生産の第1号である。しかし、資本も彼ら持ちの委託生産という形だ。運営も相手側の現地人に任せた。その名も「シャンパン工場」。工場といっても、アパートの部屋の中に仕立て上げた2本の組み立てラインに、女性が30人ずつ付いて、東京から送られてきたキットを組み立てる。まるで家内工業である。「TR-510」「TR-623」の2機種の生産を行い、ヨーロッパをはじめ、オーストラリア、カナダなどの英連邦関係の国々へ供給された。しかし、この「シャンパン工場」の寿命は、1961年までの2年間だった。理由は、経営方針をめぐる現地マネジメントとソニー側の意見の対立だった。

 香港での生産は暗礁に乗り上げてしまったが、やはりヨーロッパへ製品を供給するための生産拠点が欲しい。再度、候補地探しが始まった。そして、二度目の試みの舞台として選ばれたのは、農業国アイルランドの南西に位置し、ヒースの広がる「シャノン」という耳慣れない土地であった。しかも、今度は100%出資の正真正銘のソニーの海外生産工場である。当時、日本企業としてはブラザー工業が、多少工業化の進んだダブリンにタイプライター工場を持っていたくらいであった。

 なぜ「アイルランド」そして「シャノン」を選んだのか。まずアイルランドはイギリス圏であったため、でき上がった製品をイギリスだけでなくオーストラリアやカナダなどの英連邦グループへ供給しやすいだろう、また、イギリスとアイルランドのEEC(欧州経済共同体)への加盟も見込まれていたので、将来、より広範囲のヨーロッパ地域が市場となるだろうという希望的観測があった。

 シャノンは自由空港地域であり、西半球における航空機の燃料補給の中継基地である。でき上がったトランジスタラジオを、航空機輸送でイギリス本国、およびヨーロッパ、カナダ、アフリカ、南米などの諸国へ素早く供給できる利点もある。
 当時、アイルランド政府は積極的に産業誘致も行っており、ソニーにも働きかけがあった。

 1959年5月に盛田(当時専務)がシャノンを訪れ、その後、戸澤{当時半導体部部付兼営業部次長)大賀(当時第2製造部長)なども現地を視察して話が具体化していった。

 準備が始まった。
 1959年10月、まずアイルランドにおける現地法人設立を大蔵省(日銀)へ申請し、外国へ資本を送る許可(外貨証券の応募許可)を求めた。10日余りでアイルランドのソニー現地法人に対する資本として、5万ポンドの外貨証券の応募許可が下り、11月中に送金された。

 当時は1ポンドが約1000円だったから、約5000万円が送られたことになる。かなりの投資額だ。現地シャノンでも、スイスの駐在員事務所にいた小松万豊たち第1陣が現地入りし、設立準備や材料調査を進めた。
 そして、同年12月23日付で、アイルランドにおけるソニーの現地法人ソニー・シャノン社(Sony Limited)が設立された。
 翌1960年2月には事務所を開設。机・椅子を2脚、屑かご、タイプライターが最初の買い物だった。工場の開所式が行われたのは6月。初代の工場長は外国部の鈴木彰(すずき あきら)である。

 すでに5月には、トランジスタラジオの生産が始まっていた。日本人スタッフ、現地スタッフとともに、ゆくゆくは「純然たるアイルランド製のラジオの生産をめざす」と張り切ったが、まずは、部品をイギリスやアイルランドで調達、トランジスタ類を日本から輸入し、組み立てを主作業としてスタートを切った。
 そうして生み出されたのは、「TR-6120/L」などの、6石あるいは7石の1バンド(中波)、2バンド(中波/長波)タイプのトランジスタラジオである。ピーク時には100名ほどの従業員がラジオの生産に励み、月産3000台ほどまで至った。

第4話 鳴かずのラジオ


  • シャノン工場を視察する井深(左端)
 しかし、3000台といっても、その陰に実は「鳴かずのラジオ」が山ほどあったのである。トランジスタラジオの生産は精密さが要求される作業であった。
 平和な農業国のおおらかな従業員たちは、工業製品の生産のノウハウというものに乏しく、また、勝手に持ち場を変えてしまう。
 当地で得られる部品もあまり品質が良いとはいえなかった。当然の結果として「歩留まり」の悪さに、工場管理や技術指導を行うためにアイルランドに駐在する6〜7名の日本人スタッフは頭を痛めた。
 しかも「ストライキが当たり前の国」ということもあり、イギリスや日本からの部品の供給も、海運、荷揚げ、陸送とあちらこちらの労働者のストライキで滞りがちだ。

 問題はほかにもあった。頼みの綱の日本側の窓口の外国部には、まず国際電話は高すぎて年に2、3本しかかけられない。テレックスを送る時も、日本への空き回線は夜中まで待ってようやく通じるといった具合。日本への帰国も許可が下りないとだめ。これでは「先兵」たちのSOSはなかなか正確に届かず、届いても、何しろ過去に経験のない試みだけあって、日本側もノウハウを伝えることもできない。志半ばに5万ポンドの資本が底をつき、シャノン工場は赤字工場に転落していった。

「調査が甘かったのだろうか」「このままではシャノンはだめになる」。工場に駐在していた日本人スタッフたちに、日本から数名の助っ人が新たに加わり、危機感を皆が持ちながら、「歩留まり・生産性の向上」など生き残り策を数年間必死で講じた。 
 しかし、結局生産開始から5年経った1965年1月、「取りあえず生産中止」の決断が下ったのである。事務所、工場の従業員は半分くらいに減ったが、それでも1年くらいは仕掛品(完成していない半製品)の修理、アフターサービスなどをしながら細々と工場は生きながらえ、再生への望みを捨てなかった。

 しかし、ついに万策尽きた1966年1月20日、「シャノン工場閉鎖」の命令が出された。数日中に従業員にも発表され、1月末日を持ってシャノン工場は閉鎖した。日本人スタッフも順に帰国して行った。同年4月に日本銀行外国局に「現地法人閉鎖報告」が行われ、シャノン工場の幕は閉じられた。

 さまざまな障害に立ち向かいながらの海外生産工場設立だったが、早すぎた決断だったのであろうか。しかし、この経験は、その後のサンディエゴ、ブリジェンドに始まる一連の海外生産工場の確かな試金石になったのは間違いない。
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