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第22章 資本自由化第1号「CBS・ソニーレコード」の誕生

第1話 資本自由化第1号「CBS・ソニーレコード」の誕生


  • 1968年、当時CBS会長のスタントン氏を囲んで新出発を祝う、盛田、大賀、小澤敏雄(おざわ としお。のちCBS・ソニー社長) (左から2、 4、5番目)
 1960年頃、日本と欧米の間には、すでに貿易摩擦が起きていた。国際競争力の強い造船や繊維などの輸出を進める一方で、国際収支の不安定さを理由に輸入と為替の制限を続ける日本に対し、米国や欧州諸国の不満、そして自由化要求が高まっていた。

 外圧の中で、日本政府は、まず輸入制限、そして為替制限を順に取り除いていく。日本の経済は「自由化」に向けての胎動を見せていた。日本は世界に向かって自らの市場を開きつつあった。
 こうした一連の「自由化」の流れの中で、とうとう「資本」の鎖国状態も解かれることとなった。外国企業が日本国内にその子会社や合弁会社をつくったり、日本企業の株式を取得して経営に参加するなどの「直接投資」を認める、いわゆる「資本自由化」に日本政府が踏み切ったのだ。1967年7月から実施の運びとなった「第1次資本自由化」は、自由化の対象となる業種を決め、さらに、それらを外資の比率を100%まで認めるものと、50%まで認めるものとに分けた。

 その50%業種の中に、レコード産業があった。この自由化措置を聞くや否や、日本のレコード市場に注目していたアメリカの最大の放送会社CBS社は、日本にレコード会社をつくろうと、合弁相手の日本企業を探し始めた。CBS社の事業分野の一つであるレコード・グループは、世界の20%のシェアを持つ上、レコード技術の開発にも優れ、LPレコードの商品化という実績もあった。長く原盤供給契約を結んでいた日本コロムビアとは、合弁の話はまとまらなかった。

 1967年夏から、特命を受けたハーベイ・シャイン氏(当時CBS・インターナショナル社長、後にソニー・アメリカ社長)が来日し、いくつかのレコード会社に足を運んでいた。ところが、どこも、CBS社との合弁計画に興味を示してシャインの話を聞くことは聞くが、決断を求めれば、「検討中」を繰り返すばかりだった。シャインは「イエス・ノー、一体どっちなんだ。これが、日本式ビジネスか?」といらだちを覚えていた。

 10月になり、シャインは、放送用機器の取引関係にあったソニーのミスター・モリタのことを思い出した。何か、アドバイスでももらおうと、盛田(当時副社長)を訪ねてみると、盛田は、話を聞くや否や、「ソニーと合弁でやらないかね」と、自ら名乗りを上げたのだ。その決断の速さに、シャインはびっくりした。もともと、アドバイスをもらおうと思ったほどだから、ビジネスマンとしての盛田の手腕に疑いはない。あれだけ、いろいろな会社を歩き回っても決まらなかった話が、盛田と会って30分後に、走り出したのである。

翌日ゴッダード・リバーソン氏(CBS・コロンビアグループ社長)、シャイン氏、ウォルター・イエトニコフ氏(当時CBS・インターナショナル副社長)が、ソニー本社を訪れ、盛田、岩間(当時専務)、大賀(当時取締役)ほか数名を加えたソニー側関係者に正式な説明が行われた。その10日後に、早速ソニー側から契約書の案が出されたから、シャインたちは、二度びっくりした。その後の交渉は、難しい交渉であったが、双方の交渉チームの大変な努力により短期間で終えることができた。年内には合弁会社設立の契約に調印、通産省へ設立認可申請の運びとなったのである。この申請のニュースは、レコード業界に大きな反響を与えた。ソニー内部には、新レコード会社設立のための準備室が、大賀を中心に発足した。

翌1968年3月、「CBS・ソニーレコード」が誕生した。資本金7億2千万円。「資本自由化措置後の第1号の合弁会社」の栄誉も授かっての出発だった。
 
実は、合弁契約成立までに紆余曲折があったが、最後までもめていたのが社名だ。世界の冠たるレコード・ブランドとしての自負のあるCBS側が「当然『CBS・ソニー』だ」と言えば、「日本の会社だから『ソニー・CBS』だ」とソニー側も主張し、双方が譲らなかった。盛田たちは、CBSとの合弁を決意した時から、「ソフトウエア」ビジネスを、「ハードウエア」ビジネスとともに、ソニーのグループの中核のビジネスに位置づけていた。だからこそ、「自分たちの手で、経営して育て上げていきたい」、そんな経営方針の原点を『ソニー・CBS』の主張に込めていたのだった。
 最後は、冗談のようだが、「仕方ないから、アルファベット順だ」ということで決着がついた。

第2話 業界の慣習にとらわれない


  • 1968年3月朝日新聞に掲載したCBS・ソニーレコードの人材募集広告
 CBS・ソニーレコードの社長には、ソニーの副社長である盛田が兼任したが、この新会社の経営を実質的に任されたのは、当時ソニーの取締役製造企画部長だった大賀である。大賀とともに、ソニーから転籍してきたのは、小澤敏雄、松尾修吾を含めた合計10人足らず。皆、大賀の、「レコード会社をつくるが、やってみないか。しかし、やるなら新会社に骨を埋める覚悟をしてほしい」という言葉に応えてやって来た、やる気満々の人間ばかりだ。小澤は、石炭を扱う古河鉱業から、新たなチャレンジを求めて、ソニーと名を変えたばかりの未知の電機会社に中途入社していた。そこで、井深、盛田らの発する強烈なソニーという会社のフィロソフィーに触れた。自主性と自由、柔軟性を学んでいた。

 「とにかくこれは俺たちの会社だ。CBSでもなければ、ソニーでもない。ソニーというブランド、CBSというブランドを傷つけるようなことはしない。でも俺たちの手で育てていく、独立した新しい会社なんだ」。こんな思いが、CBS・ソニーレコードの生まれながらの強烈なフィロソフィーとなった。大賀をはじめとするソニー出身の経営陣も、ソニーから完全に転籍して腰を据えた。そして、外資50%の会社でありながら経営はソニーが全責任を負い、CBS側から役員は一人も参加しなかった。

 「新しい会社の将来を決める最大の要素は、『人』である」と考えた大賀は、あえてレコード業界の経験のないフレッシュな素人に白羽の矢を立てた。一緒に転籍してきた小澤自身からしてレコードなど10枚程度しか持っていない、まったくの素人だ。戦前からの歴史を誇る老舗のレコード会社がひしめく業界で、ほかと同じことをやっていたら、新参者のCBS・ソニーレコードが肩を並べるのは難しい。「新しい会社には、新しい眼だ。素人でもいいから、やる気のある人だけ集めて新しいビジネスをやろう」。求人広告に集まったのは、何と7千人。その中から、第1期生として採用されたのは、70歳の高齢者を含めた音楽を愛する素人80人。彼らは、期待どおり、業界の慣習にとらわれない新しいレコード会社の発展の原動力となっていく。

 「音楽ビジネスの命であるアーチストも、自分たちで見つけ育てていこうじゃないか」。音楽ビジネスでも開拓者精神を発揮した。それまでの常識では、タレントの発掘はプロダクションの仕事で、レコード会社はレコードを出すだけだった。自らタレントを発掘するこの精神は、脈々と受け継がれ、やがて独特のオーディション制度へと発展していく。

 「俺たちの会社」のゼロからのスタート、素人ゆえの失敗は枚挙にいとまがなかった。しかし、CBS・ソニーレコードは、徹底的な市場調査を基に、新人材の発掘に次々と成功して、独特の音楽ビジネスを展開した。演歌路線中心だった業界の中で、アイドル路線という新しいジャンルを築くことにも成功し、急速な成長を遂げていった。

第3話 新しい絵を描く喜び


  • 創立5周年目に建てた東京・市ヶ谷のCBS・ソニーレコード自社ビル
 「自分たちが味わった、新しい会社という白いキャンバスに絵を描く喜び。これを、一人でも多くの社員に味わってほしい」。こんな大賀や小澤の思いは、 CBS・ソニーレコードの「分社化」の動きとなって現れた。

 日本の会社では、一般に、年功序列、終身雇用制の給与体系が貫かれ、「メイクマネー」などの夢を実現しにくい。社員一人ひとりが存在感を味わえ、夢、やりがいを感じられる会社にするためにはどうしたらよいだろうか——その答えが、「自分の責任で決断し行動していける小さな組織、活躍の場を増やしていくこと」だった。特に、古河鉱業時代、石炭産業の斜陽化に伴う人員整理を目の当たりにした小澤の胸には、「企業は人員整理をするようなことがあってはいけない。そのためには、活動の場を広げなくては」、そんな思いがあったのだ。10倍のフィールドがあれば、10倍の人が生き生きと働けると、通信販売の CBS・ソニーファミリークラブに始まり、レコード産業をベースとしながら、関連分野へ積極的に手を広げていった。

 5周年を迎えた1973年、社名を「CBS・ソニー」と新たにし、自らの利益で自社ビルまで完成させた。さらに、企画・制作から宣伝、製造、販売までを一貫して行える音楽企業をめざし、業界平均より1けた上の速度で成長を続けた結果、もはや業界で1、2位の売り上げを誇るレコード会社に成長して、設立 10周年を迎えた。無借金経営はもちろんのこと、従業員にボーナスを年間3回払い、株主には10割配当を行う優良企業だった。

 この時、すでにCBS・ソニーファミリークラブ、エイプリル・ミュージック、CBS・ソニーレコード、ジャパン・レコード配送、CBS・ソニーカリフォルニアなど5つのグループ企業を有していたが、大企業化による沈滞を嫌い、さらなる分社化によりグループ企業は次々と生まれる。10周年目の1978年8月に、EPIC・ソニー、1979年2月にCBS・ソニー出版。また、ソニーの全額出資であったが1978年5月にソニー・クリエイティブプロダクツ。おのおのが1980年に大賀から社長の座を任された小澤の下で育っていった。

 創立15周年を機に、CBS・ソニーは、「CBS・ソニーグループ」と社名を変えた。また、この頃、コンパクトディスク(CD)の導入を、ソニーと連携で強力に推進したのもCBS・ソニーだ。CDがわずか数年の後に見事に新しい音楽メディアとしてLPに代わり得たのも、ソニーグループ内に、ソフトウエア会社として十分な実力とノウハウを蓄えたCBS・ソニーがあったからこそである。工場建設などCDのソフトウエアへの投資をすべて自ら賄えるほど、15年の間に利益を蓄積していたので、ソニーからの資金援助は一切必要とせず、また、CBS側からの投資決定への関与も断ることができた。

 そして1988年、20周年を迎えた。「これまで白いキャンバスに好きな絵を描くことができた。成功の歴史だった」と小澤は胸を張った。1年目は7億円だった売上高が、20年後には全グループで1100億円を突破していた。

第4話 CBSレコードとコロンビア映画の買収


  • ソニー・アメリカのオフィスでCBSとの契約書にサインする大賀(中央)と関係者たち
 CBS・ソニーグループの20周年を祝う式典で、初代社長だった盛田は、20年の歩みへの満足を述べた後、こう締めくくった。「ソフトの発達により、新しいハードウエアも初めて人の役に立つのです。どうか、この次の30周年を祝う時には、音だけでなく映像も含めた、もっと大きな、もっと幅広いソフトウエアビジネスを確立していってほしいと思います」。盛田のこの言葉は単なる願いではないことが、続くソニーグループの大きな決断、戦略によって証明されていくのである。

 1988年1月、CBS・ソニーレコード誕生時の合弁相手であるCBS社傘下のCBSレコードを買収。さらに翌1989年11月には、アメリカの大手映画会社コロンビア・ピクチャーズを、公開買い付けで買収したのだ。この2件の大型買収は、日米で大きな反響を呼んだ。

 CBSレコードの買収に至るまでは、話し合いを開始してから1年余にわたる月日が必要であった。1986年末に交渉が始まり、売却金額などを巡って話が行ったり来たりすること1年近く、1987年秋、交渉はついに成立したのである。

 すぐに本格的な買収の手続きが始まった。坂井利夫(当時専務取締役経理部長)を団長に弁護士を含む大交渉団が結成され、買収のための膨大な法務・財務手続きを進めた。CBS側も同じくらいの交渉団を率いてくる。一大交渉絵巻となった。レコード資産、人を含めて、企業をすべて引き取るのだから、厳密に細かな取り決めが必要である。問題別にグループを分け、交渉が並行して進められた。連日連夜のやり取りを1ヵ月ほど続けた結果、世界40ヵ国においてレコードビジネスを行うCBSレコードを、ソニーファミリーに迎えることができた。

「音楽の次は映像だ」と考えて買収に至ったコロンビア・ピクチャーズの場合は、同じ買収ではあっても、CBSレコードのように、当事者の二企業間で時間をかけて交渉を行うものではなかった。コロンビア・ピクチャーズの取締役会の合意を得た後は、「公の株式会社として上場されている企業の株を買う」、つまり株式の公開買い付けという形で進んだ。むしろ時間をかけたのは、映画ビジネスの買収が実現した時に、どのようにマネジメントをしていくか、適切なマネジメントが確保できるかということの検討であった。日本企業による買収としては、当時として史上最高の総額34億ドルの価格がついた買い物だったが、2件の買収により映像・音楽の両分野で、ソフト資産、世界基盤を持つことになった。

 盛田、大賀が、この2件の大型買収を決意するに至ったのは、「ハードとソフトはソニーグループのビジネスの両輪だ。それをうまく回転させていこう」というソニーグループの総合戦略が、はっきりと固まっていたからである。そもそも1968年のCBS・ソニーレコードの誕生にその芽生えがあり、その後大切に育てられ、ソフトウエア・ビジネスのノウハウが蓄積されてきた。この経験を通して、「われわれは、今後、AVハードとソフトの両分野で発展を生むビジネスを推進していく必要がある。この二つは両立してこそ初めて長期的に発展しえるのだ」、こう確信するようになったのである。買収は、この流れの中で起こった自然の成り行きであり、はっきりとその戦略を世に知らしめるものであった。社名も後に、「ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)」、「ソニー・ピクチャーズエンタテインメント(SPE)」と改まった。

 ソニーは、得意とする磁気記録、光、半導体、デジタル処理などの技術革新により、お客さまに喜ばれるハードウエア商品とサービスを提供し、新しい市場を創造していくと同時に、ソフトウエアビジネスとの「シナジー効果」で総合力を発揮する、真の「エクセレントカンパニー」をめざし、21世紀の下絵を描いたのである。 

第5話 ゲーム分野への参入


  • 1994年10月、エレクトロニクスショーでデモされた「プレイステーション」試作機の前には長蛇の列ができる
 デジタル技術の革新が新しいメディアを生み出し、コンピューター、通信、テレビなどが一体化した新しい仕組みを実現する「マルチメディア時代」の到来が叫ばれると、時代の流れはますますハードウエアとソフトウエアのシナジーを必要としていく。

 デジタル技術を初めて音楽の世界にもたらしたCDの登場から、10年目の1992年、ミニディスク(MD)という新しい小型音楽メディアが誕生。前後して、CD-ROMやビデオCDといった光ディスクを使った映像メディアなど、たくさんの可能性を秘めたマルチメディアが、次々と誕生していった。エンタテインメントの可能性を大きく広げる「マルチメディア時代」の中、ハードウエアの技術革新による新しいメディアの要請に対し、ソニー・ミュージックエンタテインメントは優れたソフト制作力でいち早く対応し、ソニーグループ内での存在の重みを増していった。

 ハード側、ソフト側双方のメンバーが、互いの考え方、活動を理解し、技術動向を把握していくことで、ソニーグループとしてシナジーの方向性を見つけていった。
 「家電と映画・音楽ソフトの両方を持つソニーこそ、ゲーム分野に進出すべきだ」。1993年11月、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME(J))とソニーの共同出資により、家庭用ゲーム機およびそのソフトウエアの開発・販売・ライセンス業務を行う「ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)」を設立したのである。それまでも他社との提携によるゲームビジネスへの試みはあったが、最終的に独自路線での参入を決めたのだ。ソニーで放送用機器の開発を行っていた人、SCE(J)グループでソフトの制作・営業を行っていた人など、ソニーグループ内のネットワークを活かして、ゲーム機づくりに熱意を持ついろいろな人材が効率的に結集した。

 社長はSME(J)会長に就任していた小澤である。副社長は、ソニーから移った徳中暉久(とくなか てるひさ)と、EPIC・ソニーで数多くの新人アーティストを育てるとともに家庭用ゲームソフトの将来性に注目していた丸山茂雄(まるやま しげお。SME(J)元社長)。
 新会社はいよいよスタートした。育ちの違う人材がワイワイ言いながらつくり上げた会社にはまた、独自のカルチャーが築かれていく。

 そして、設立から約1年後。ソニーの持つ「ハード」技術とSME(J)の持つ「ソフト」ノウハウを合体させて生み出されたのは、3次元CG(コンピュータ・グラフィックス)による画像をコンピューター(ワークステーション)並みの速度で処理できる32ビットのゲーム機「プレイステーション」である。 CD-ROM(CDを使った読み出し専用メモリー)をソフトに採用した。完成した製品「プレイステーション」は、玩具の域を超えていた。

 そして、1994年12月、任天堂の牙城であったゲーム業界へ斬り込んだのである。ソニーブランドは通用しない。しかし、用意した10万台は発売当日に売り切れ、以後半年足らずで100万台を突破、ゲームビジネスへの参入に成功した。日本での成功に続き、徳中暉久新社長の下で、1995年秋、米国、欧州へこのハードとソフトのシナジーによる新しいビジネスが発信されていった。

 1996年5月、全世界向け累計出荷台数が500万台を突破した。一つのモデルでこれだけ大量な数が、これだけ短期間に販売されたのはソニーの中でも記録的である。
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