夢の実現に向かって

夢の実現に向かって ソニー・太陽で代表取締役社長を長年務めた長田博行が、社長退任を機に、創立以来の30年を、オン/オフの思い出とともに振り返ります。

ソニー・太陽 前代表取締役社長 長田 博行

  • プロフィール
    ソニー・太陽は、障がい者の社会参加を支援する「太陽の家」(*1)の運営に賛同したファウンダーの故井深が設立、全社員の約60%を障がい者が占めており、マイクロホンの生産などを手がけている。長田は1971年太陽の家に授産生(*2)として入所、1978年ソニー・太陽の前身であるサンインダストリー設立時に入社。取締役、常務取締役を経て2002年代表取締役社長に就任。2010年6月に退任、現在はソニー(株)ダイバーシティアドバイザーとして活躍。自立厚生の模範として大分県知事賞、厚生労働大臣賞などを受賞している。
  • *1太陽の家:1965年、大分県別府市に創立された社会福祉法人。障がい者が働き、生活する施設であり、地域社会との交流も深めながら、障がい者が「社会人」として自立するための支援を行っている。
  • *2授産生:障がい者に就労や技術取得を支援する施設を「授産施設」と言い、授産生はこの場合「太陽の家」を利用する障がい者のこと。

自立 (「ソニー・太陽」の前身である法人設立へ)

ソニー・太陽の前身として1978年に設立されたサン
インダストリー。写真は設立当時のラインの様子。

 1972年(昭和47年)「太陽の家」は活気に溢れ、そこで働く授産生は皆、目が輝いていました。努力すれば、まじめに働いて頑張っていれば社会人になることができる、という当時では夢のような環境ができつつあったからです。オムロン(株)の創業者 立石一真さんの決断で太陽の家の中にオムロン太陽電機(株)ができ、日本で初めての福祉工場が建てられ、仕事は全面的にオムロンがサポートする体制が整いました。その上社員は、工場長始め全員太陽の家の授産生から選ばれました。その後、毎年のように社員募集の張り紙が掲示され、数人の授産生が採用されて社会人として巣立って行きました。私もいち早く応募しましたが、結果は不合格。褥瘡(床ずれ)があり健康面に不安があるとの理由でした。もし採用されていたとしたら今の私はなかったことになり、運命の不思議さを感じています。

こうした中、1974年5月に「太陽の家」にソニーの仕事が舞い込んできました。私はオイルショックの影響で前の会社を辞め、職探しをしている最中でした。私は16人の障がい者の仲間たちと社会人になる夢を持って必死にラジオの生産に向き合いました。時にはソニーの技術者の方に「失敗すればいつでも引き上げる」という厳しい指導を受けながら皆よく頑張りました。その成果が徐々に現れ、授産生も年々増えて規模も大きくなり、生産品目もラジオからワイヤレスマイクに移っていきました。

1975年、大分市、別府市で第1回の極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(Fespic)が開催され、私は経験したことのないフェンシングに選手として出場することになりました。恥をかかないために仕事も早く切り上げ、必死に練習に励んだことを思い出します。こうして仕事、スポーツと充実した日々を過ごしている時、法人設立の動きが出てきました。井深さんらが発起人となり、資本金500万円の会社、株式会社サンインダストリーとして1978年1月に再出発することになったのです。

草創期 (「ソニー・太陽」創立と“ウォークマン”生産開始)

夢の実現に向かって ソニー・太陽で代表取締役社長を長年務めた長田博行が、社長退任を機に、創立以来の30年を、オン/オフの思い出とともに振り返ります。

 1978年、井深さんは「太陽の家」作業棟の落成式に本田宗一郎さんをともなって私たちの前にあらわれました。「身体に障害はあっても、仕事に障害はありえない」という理念を掲げ、それを着実に実践し、障がい者が生き生きと働いている現場を目の当たりにした井深さん、本田さんは、ますます中村先生(太陽の家創設者、整形外科医)を信頼し、本田さんに至っては祝辞の中で、「ホンダもソニー同様太陽の家に仕事を出し、会社を設立することにします」と決意を述べられたほどです。太陽の家はこれで立石さん(オムロン創業者)、井深さん、本田さんという世界的にも類がない力強い味方を得、その後三菱商事、富士通と仲間が増えていくことになります。

 1981年9月。会社設立から3年、従業員も70数名になり工場らしくなってきた折、ソニーの障がい者法定雇用率を満たす特例子会社として、社名も「ソニー・太陽」と改め、新たな船出をすることになりました。社名変更には盛田さんがわざわざ大分においでになり、県庁にてソニー大分(現・ソニーセミコンダクタ九州大分テック)設立の動きと合わせて公に発表してくださいました。

 この時期、私たちのモノづくりに対する知識や経験、そして要素作業技術もさまざまな製品を造ることによって開花したと言っても過言ではありません。中でも特に苦労し記憶に残っているのは、FM受信機内蔵ヘッドホン「MDR-FM7」と“ウォークマン”です。高周波技術と高度な要素作業技術がなければできない製品で、私たちは約3ヵ月間良品を造ることができず、原因追求のため帰宅は午前2時という日が続きました。そして1983年12月1日、当時ゼネラルオーディオ事業部長をされていた大曾根さんが来社され、工場の見学が終わった後突然電話を借りますと言われ、「すぐにソニー・太陽で“ウォークマン”の生産を開始する準備に取りかかってください」という指示を出されたのです。私はただ驚くばかりでしたが、2週間で“ウォークマン”生産ラインができ上がり、12月19日に大ヒット商品「WM-20」の生産が開始されました。大曾根さんが「一番難しいモノを造れば後は何でもできる」ということでスタートしましたが、年末には400台以上の不良仕掛の山、ラインリーダー以上の者で正月休みを返上し必死で修理をしたことは今では良い思い出です。

自律

89年に井深さんが文化功労者に選ばれた際、ソ
ニー・太陽の社員全員でお祝いの花束を渡した。

 1988年7月2日、この時期ソニーとしても積極的に障がい者の採用を進めており、ソニー・太陽も120名の障がい者が働いていました。そのような状況の中で、井深さん、大賀さん始め多くの方々をお招きし、日出(ひじ)工場の竣工式を行いました。でもこの喜びは束の間で、健常者に負けまいと頑張ってきた“ウォークマン”の生産数も徐々に落ち始め、90年にはいよいよ生産終了。モノ造りは加速度的に海外にシフトされ始めていました。円高、バブル崩壊という厳しい環境でソニーグループもそれどころではない状況は理解してはいましたが、立地条件が悪い、間接業務の負担が大きい、障がいのある社員が多くて大丈夫かといった声も聞こえてきています。

 私たちは、人に頼るより頼られる事業、核となる事業を必死で探していました。そんな折、見学に来られたソニー子会社のある社長さんから「今マイクロホンがOEMになっていて、ソニーにとって大事な音の入り口の技術がなくなるのは残念」という情報が飛び込んできました。私は「これだ」と思いさっそく調査を開始。製品の大きさ、要素技術、安定した需要、デバイスを含めた一気通貫の生産体制が確立でき、そして何よりも国内では当社だけの事業です。さらには人材養成次第で設計、サービスまでの展開が可能で「自立」から「自律」への変革が期待できるのではないかということで、当社に最も適した事業となると判断し、89年より積極的に誘致活動を展開し、91年には奥行139mまで増築された工場でマイクロホンの生産を開始するまでこぎつけました。

ソニーらしい障がい者雇用 (障がい者からー市民ヘ)

 1998年、会社が設立されての20周年式典において、お客さまの前で今後10年に会社として、個人としての新たな道、設計業務の導入・資材の完全自給化・障がい者の日常生活における行動範囲の拡大等々「自律」に向かうことを宣言しました。2001年に一般用マイクロホンECM-S80、2003年には業務用マイクロホンECM-678を自社で設計、2002年に資材の完全自給化が完了。両手のない障がい者が足だけで車を運転して遠出をしたり、海外旅行をする社員もいて、宣言通り着実に目標に向かって進んでいきました。

 そんな中、特にモノ造りにおいて1999年に導入した生産革新活動はソニー・太陽に画期的変革をもたらしました。それまでは多い時で20人前後の社員で組み立てていたマイクロホンを、障がい者一人ですべて組み立てるというカスタムセル方式が確立し、名機と言われているマイクロホンC-38B、C-800G、MDR-CD900なども創意工夫することによりすべて障がい者一人で組み立てるまでに成長したのです。経営的にも売上は3倍になりました。その結果、2007年経済産業省主催の「ものづくり日本大賞」のコンクール生産プロセス部門で優秀賞を、2008年には、会長兼社長CEOのストリンガーさんからCEOAward特別賞 をいただきました。工夫次第で障がい者が健常者と同等に働けるという環境ができあがったのです。そして、2008年1月に行われた30周年の式典。17名から出発したソニー・太陽がこの時点で180名と仲間が増え、胸を張って次のステップに向かおうと考えました。私たちはこれまでの体験、経験を踏まえて、今後ソニー・太陽がモデルとなり、健常者も障がい者もない平等の社会、インクルージョンされた社会に向かうことを宣言しました。

2007年「ものづくり日本大賞」表彰式。前列右側が長田さん。 カスタムセル方式で生産される「C-388」。 ソニーグループ各社に障がい者雇用のノウハウや事例などを共有する「障がい者雇用研修」。

 私たち障がい者は生きていくのに健常者に比べほんの少し時聞がかかります。しかし働きながら生きていくことを最大の目標にしてきました。障がい者が働くことを受け入れられなかった時代より、私はハード(日常生活をする上で障壁がない)、ソフト(障がい者を普通の人として対応してくれる)の環境に恵まれ、36年間ソニーの一員として働きながら生きてくることができました。普通に働いてこられたこと自体が夢の中だったかもしれませんが、私たちが実践してきたことがソニー・太陽だけのものであってはならず、まだ働く機会に恵まれない障がい者のためのモデルとなり、インクルージョンされた社会が早く来ることを夢見て、これから先、さらに10年いや20年かかっても、さらなる努力を惜しんではならないと思っています。

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